伝燈寺報告

2012.7.21(土)
江華島の古刹伝燈寺
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↑伝燈寺の犬

 ボク、予てより韓国に魅せられていました。はじめて韓国に行ったのがオリンピック開催決定に沸く年でした。それから毎冬2回、凍てつくソウルを訪ね、オリンピックを秋に迎える年の春も、工事現場のような喧騒に包まれるソウル市内を、「ハングル酔い」でふらふら歩き回っていたものです。振り返るともう25年にもなるんですね。そして25年を経過して、昨年暮、家族で訪ねたのですが、ソウルは思いっきり変貌していました。まるっきり東京でした。とってもオシャレな街に変貌していました。

 ところで、「ハングル酔い」というのは、千鳥足で酩酊する状態を言います。飲酒していないにもかかわらず、ふらつく足元、眩暈、脳溢血の前兆のような名状しがたい浮遊感とお考えいただければいいでしょうか。周囲を闊歩する人たちは顔つき、体つきなど、東京銀座を歩いているときと同じなのですが、交わされている言葉と電光掲示板や看板などの文字だけが全く不明。一種、夢の世界にいるような、もどかしさ。混乱した酩酊。この奇妙な浮遊を「ハングル酔い」というのです。名著『ソウルの練習問題』の著者・関川夏央先生の造語なのです。ハングルは母音と子音を組み合わせて構成するローマ字のような文字列なので、慣れてくるとカタカナを読むような感覚で、なんとか発音だけは出来るようになるのです。ところが、発音したその言葉の意味がまったく分からない。珍紛漢紛、夢遊状態としか言いようがない不安な常態なのです。発音が出来ても、意味がまったく分からない。25年前はそれでも日本語と同じ漢字、例えば「薬局」とか「食堂」とか「新聞」とかの文字を看板に掲げていたり、東亜日報などの新聞の見出しには「輸出立国」とか「緊縮財政」とかの文字を踊らせて、少しは気分的にも救われたものですが、ハングルを優先させて漢字を極力使用しないお達しでもあったのでしょうか、まったく意味が分からない文字列に、どこか漢字使用国民たる日本人を拒絶しているような、尖った意図を感じていました。この奇妙な心身の状態を関川先生は「ハングル酔い」とネーミングしたのです。まことに達見というほかありません。

 かき分けかき分け南大門市場(ナンデムンシジャン)をさまよい、地下鉄(チハチョル)を乗り継いで安国駅(アングックヨク)で地上に出て、景福宮(キョンボックン)に入ると、そこだけは閑雅な李朝時代の雰囲気が漂っていて、ゆったりとした間隔で伝統的な瓦葺きの建物が並んでいる。北を見ると峨々たる北岳山。日本で言うと3000メートル級の山頂部分の山塊をカットして据え直したように控えている。当時は超高層ビルはほとんどなく、南山タワーだけがこの李朝の王宮から見える現代で、ああ、空間としては李朝時代だけど、基本的には現在ただいまのソウルなのだと錯角を戒めているように佇立しているようでした。京都の社寺の庭から見え隠れする京都タワーにも、風景として似たような構図でもありました。
 この李氏朝鮮の前の王朝・高麗時代、日本では元寇として記憶されている蒙古軍の侵略を鎌倉武士たちが必死に防戦し、刀折れ、矢尽き、絶望的な戦局を迎えたその時、幸運にも暴風により蒙古軍は退散。しかも、二度に亙っての日本侵略が二度とも暴風により阻害されたことを、朝廷、社寺をはじめとする非戦闘グループの公家と宗教家は「神風」と強弁。このあたりは海音寺潮五郎先生の『蒙古来襲』に詳しいのでご再読ください。この蒙古軍に加担せざるを得なかった高麗の苦悩を描いた井上靖先生の『風濤』もまた、ボクの韓国好きの始まりだったかもしれません。
 ボクの手元にある『風濤』は昭和38年11月発行の講談社刊で、柿渋色のざっくりとした布製の角背四六判で、何遍読み返したことか。好きな本でした。

 その『風濤』は、こんなふうに始まるのです。少し長いですが、冒頭の段落二つ分を紹介します。

 高麗の太子倎が蒙古に入朝するために降表を捧げて江華島を出たのは、西暦一二五九年四月二十一日であった。本来なら倎の父である高麗王高宗が入朝すべきであり、蒙古からもそれを厳しく求められていたが、高宗は時に六十八歳、老衰と多年に亙る蒙古軍との抗争に依る心労のために、その容態は明日も判らぬ気遣わしい状態にあった。ために父王に替って太子倎の入朝となったのである。
 倎は参知政事李世材、枢密院副使金寶鼎等四十餘名の従者を随え、早暁内城の北門を出ると、小丘陵の間を縫っている泥濘の道を進むこと一里半、島の北端山里浦へ出て、そこから漢江の河口に浮かんだ。江華島と本土の間の水域は、この邊りが最も廣く、漢江の流れと潮がぶつかり合って、遥かに霞んで見える對岸との間を青黒い波濤が埋めている。これに反して島の東海岸は本土と全く一衣帯水、指呼の間にあった。蒙古軍は毎年開京附近に侵寇して来ると、最も水域の狭くなる地点にある文珠山に登り、江を隔てて、江華島を俯瞰し、盛んに旗幟を張ったものである。


 落ち着いた、この静かな書き出しが好きでした。蒙古軍に本土を蹂躙され、江華島(カンファド)に遷都した高麗王朝が天然の要害とたのんだ一衣帯水の海峡とは、実際にはどんな地勢を流れる海峡なのだろうか。日本でいうと九州と本州を二分する関門海峡のような激しい潮流が渦を巻き、漢江の河口で海水と激しく激突を繰り返す恐ろしげな水域に違いなく、海に弱い蒙古軍を怖じ気づかせて寄せ付けぬその海峡の沖に、霞むように浮かぶ絶海の孤島に違いないと、空想していました。
 たびたび韓国を訪れていたにもかかわらず、時間がないまま、訪ねることはありませんでした。ただし、いつかはこの島を眼前にする文珠山の頂から、江華島を眼中にしたいと切望していました。さらに交通の事情が許せば島に渡り、敵国調伏の祈りを上げた古刹伝燈寺(チョンドゥンサ)を訪ねてみたいと、ずっと思いを潜ませていたのです。

 その機会が意外に早く巡ってきました。

 飯島さんが所属する千葉アグリコルツーラの韓国農業視察計画があり、お誘いを受けたのです。その自由時間をいただき、視察団とは別行動で江華島を訪ねたのです。
 地下鉄2号線の新村駅(シンチョンヨク)で地上に出て、現代デパート近くのバス停から江華島行きのバスが出ていることは調べ済みでした。バスの所要は約2時間。昨年韓国に行った折り、地下鉄やバス利用が出来るスイカのような交通カードを購入し、便利に利用しましたので、今回もこのカードに新村駅で2万ウォン(約1700円)をチャージし、カタコトのハングルで、新聞や雑貨を売るミニ店舗で水や飴を買いつつ、「このバスは江華島に行きますか」の直訳、「イ ポス ヌン カンファド エ カヨ ?」と棒読みで問い掛け、その度にペラペラと聞き取り不能なほど早口の韓国語が返ってくる。多分もっとあっちだと言っているのでしょうが、よく分からない。でも、指先がきまって同じ方向を指しているので、その指さされたほうに歩き、事前に調べたバス停地図よりも500m以上も歩いたところの停留所で3000番のバスが出るバス停にたどり着きました。そのバス停で待つこと30分、3000番と書かれた赤い塗色のバスに乗り込こみ江華島へ出発です。

 地図では本土と江華島とを結ぶ橋は、北に江華大橋(カンファテギョ)、南に江華草芝大橋(カンファチョジテギョ)の2本の橋が架かっていることが分かります。この3000番バスは島の北部にあるバスターミナルが終着ですので、江華大橋を渡って島に入ることになっていて、所要時間から割り出して新村を出て1時間30分くらい経過したあたりで海峡を渡りそうです。クーラーが効いていて、とても過ごしやすく、眠ってはいけないと思いつつも、ついウトウト。気がついたら、なんと江華大橋を渡っているところでした。
 バスの車窓からは、幅の広い、ちょっと見の印象では利根川河口ほどの幅で、ただし、潮の流れの感じられない、川だったら上げ潮の潮流に勢い負けしそうな、おとなしい流れの海峡でした。太子倎も本土のこのあたりで本土に上陸したのかと思いながら、この程度の川幅と流量すら蒙古軍は怖れをなして竦んでいたのか、にわかには信じられない面持ちでした。そんなこんなを思っている余裕もないままに、あっという間に江華大橋を渡り、5分ほどでバスターミナルに到着。

 予定では終点のバスターミナルを基点に、タクシーを利用して高麗宮、巨石文化のシンボルである江華支石墓(コインドル)を見学してから島の南にある伝燈寺へと移動するつもりにしていたのです。ところが、バスターミナル内にある観光案内所(クァンガンアンネソ)で伝燈寺の資料をいただこうと覗いたところ、とても親切な案内スタッフがいて、表情と言葉の柔らかさから類推すると「タクシーなんか使っちゃダメ、お金の無駄、無駄。9番に来るバスで行ったほうが安くて早い」と、その9番ランプの下のベンチに連れていかれちゃった。時刻表のコピーもくれて、すぐに入ってきたバスの運転手に、「この日本人が伝燈寺に行きたいと言っているから、間違いなく下ろしてやってくれ」と、きっとそんなことを大声で頼んでくれている。ああ、心優しき江華島の案内人。
 高麗宮とコインドルを見学するチャンスを逃し、島の中央の脊梁部をおよそ15分ほど南下し、伝燈寺の東門に通じるバス停、伝燈寺に着きました。停車する前、運転手さんに指さされ、多分、「下りろ、伝燈寺だ」と言ったに違いありません。そうか、バスターミナルでこの客を下ろせって、観光案内所のスタッフに指さされていたことを思い出します。促されるままに下りましたが、周囲には誰もいません。観光シーズンならば多くの参詣者もいるでしょうが、生憎ボク一人。バス停の案内板は確かにハングルで「チョンドゥンサ」と書いてある。

 一般的に、韓国の仏教寺院は森閑とした山の奥にあります。釜山にほど近い梵魚寺(ポモサ)、通度寺(トンドサ)、慶州の仏国寺(プルグクサ)、石窟庵(ソックラム)、伽倻山の麓にある海印寺(へインサ)と、ボクの韓国古寺巡りの記憶で言うと、どれも大変不便な山奥にあるのが韓国のお寺。江華島の伝燈寺も、やはり結構不便な場所にありました。この不便さが魅力でもある訳で、ソウル市内からバスを乗り継いで約3時間、伝燈寺はまさしく山の奥にありました。

 バス停周辺をうろうろ。どうやら専用駐車場らしき案内板が目に入りましたが、その先に、なんとも嬉しいことに漢字で「伝燈寺」と大書した幟が翻っています。
 ここが予て憧れていた伝燈寺か。雰囲気はいい。うっそうとした松に抱かれた深山。この山上に堂宇が建ち並んでいるのか。案内順路に従って松林の中の小道を登っていきます。車で境内に直接乗り入れられる道が眼下に見えます。5分も上ると券売所が左手に現れ、その先に石組みのアーチトンネルが姿を見せています。2000ウォンを支払い東門へ。自宅で下調べしたKONESTの韓国地図によると、この東門をくぐって右手に上って行くと三郎城へと至るようになっていますが、それらしい道標は見当たりません。
 因みに三郎城とは韓民族起源の檀君の三人の息子が築いた城とのことで、伝燈寺はこの城内にある護国寺でした。外国からの侵攻があった際の国防祈願所で、日本でも元寇の際、奈良の東大寺をはじめとする大寺が敵国調伏の祈願所になったのとほぼ同じ役割を担っていたお寺です。

 三郎城へ至る道標は見当たりませんでしたが、東門をくぐり、うっそうとした森の中の道をさらに上り続けると、左手に竹林茶園が、その奥に説法殿が木立に抱かれるようにして建っています。この説法殿はテンプルステイと言って、宿泊して参禅体験する方のための施設。一見高校生のように若い男女を多く見かけます。いままでほとんど人に出会わずに来たので、若く甲高く子音が尖った韓国語を聞くと、妙に気持ちも落ち着いてきます。ボクには彼らの声が意味不明ですから小鳥の声と等質に聞こえるのです。

 境内の突き当たりに寂黙堂との扁額を上げた堂宇があり、ここでも参禅体験の若い人を見かけました。その寂黙堂からぐるりと時計回りに堂宇が並んでいて、どうやらここが伝燈寺の中心にあたるのか、山の奥にありながら、広やかに整地された広場になっていて、極楽庵、冥府殿、薬師殿、香爐殿、大雄寶殿、宗務所がこの広場を囲んでいます。広場を挟んで大雄寶殿の向かいに対潮楼と梵鐘楼が建っています。対潮楼の脇は大きな桜の木陰を利用する休憩所になっていて、ベンチが配され、訪れている信者たちが涼んでいます。開花期にはさぞや絶景お花見スポットになるでしょうね。梵鐘楼は韓国の大きなお寺に共通の大きな釣り鐘、大きな両面太鼓、ハラワタを刳り貫いて中空になった木製の魚鼓、鋳造製の大きな雲板が下げられていて、朝に夕に、墨染めの僧侶が一人で、まず梵鐘を撞き、ゆるーく張った大太鼓をまるで舞うように叩き、木魚のようなくぐもった木質音を響かせる魚鼓を叩き、金属音を発する雲板を叩き、読経開始の合図を一山全体に鳴り響かせるに違いありません。生憎なことに、ここにたどり着いたのが昼過ぎでしたので、今回は神聖な精神世界へと誘うサウンドを聴くことは出来ませんでした。まことに残念です。

 ソウルに戻るバス時刻の都合で、もうそろそろ伝燈寺を引き上げなくてはいけません。境内をもう一回りしてから香爐殿脇を見ると、瓦が整然と積まれています。堂宇新築でも計画しているのか、それとも屋根瓦補修用に用意してあるのか。近寄ってみると、堂宇新築のための基金調達として瓦1枚1万ウォンで寄進出来ると書いてあります。係のおばさんに挨拶をして、1枚寄進してきました。瓦の裏に白マジックで住所と氏名を記入しなさいと言っているみたいです。おまけに昼ご飯を食べていけと言っているようです。ああ、もっと韓国語を勉強しなくてはと、このときもまた強く思ったのでした。奉納者の例に倣って記入してきました。名前だけはハングルと日本語のダブル表記をし、一礼してのち伝統的な建築の南門をくぐり、松林を抜けて下山しました。
 もっともっと韓国語を学んで、深山の古寺をめぐる旅に来ることにしましょう。合掌。
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↑3000番のバス停。
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↑伝燈寺の案内幟。嬉しかったですね、漢字が読める人で。
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↑参道の休憩所と奥が東門。
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↑伝燈寺の料金所。
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↑伝燈寺の東門
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↑伝燈寺の境内案内板。
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↑伝燈寺の竹林茶園。鶴が門扉の代わりに。
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↑伝燈寺の最奥にある寂黙堂。
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↑伝燈寺の冥府殿(左)と薬師殿。
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↑伝燈寺の梵鐘楼。右から大太鼓、梵鐘、魚鼓。雲板はこの位置からは梵鐘の影になって見えない。
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↑七夕の飾りの提灯と大雄寶殿。
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↑伝燈寺の香爐殿と寄進用の屋根瓦。
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↑伝燈寺の金堂でもある大雄寶殿。ここで食事の接待もしていました。
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↑伝燈寺の境内を流れる小川にかかる石橋の狛犬。
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↑伝燈寺の南門。三郎城の城門でもあるらしい。
by 2006awasaya | 2012-07-21 22:00 | 行ってきました報告


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