【真剣!野良仕事】[207=三陸通信4●ご一緒、しませんか]

2013.9.2(月)
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↑三陸へ漁師さんたちの話しを聞きに行くツアーの2013年度版A4案内文です。

ひょっこりひょうたん島へ

 顔を合わせるたびに飯島さんから、「釜石小学校の校歌、知ってます?」と問い掛けられた時期がありました。先月も、先々月も「知ってます?」と聞かれ、そのたびに、「ええ、聞いたことはあります!」とか「震災後に、知りました」とか「飯島さんに聞かれて、ユーチューブにたどりつけ、聞くことが出来ました」とか、返事の内容を少しずつ変えながらやり過ごしてきましたが、実際のところは少しばかり鬱陶しかったのです。世の中の想定問答集は、きっと、この鬱陶しいと思う気持ちを相手に伝えつつも、正面切って「ああ、鬱陶しい」と言葉にしては言い出せず、初めて聞かれた時の感情の複雑さを目許に漂わせつつ、いい時に気の利いた質問をしてくれましたねと、表情全体を解凍させ、「同じ問題意識を共有していますよ」という気持ちを伝えることに終始しているはずです。青天の霹靂なんていう熟語は、深い思索の末に解答がつかめず、その無念の浪費に対して白旗を揚げることであり、そもそも、事前の周到な想定なしには使えない言葉ですから。

 何回目かに問われた後、想定の域内で足踏みしたまま、ボクは少しも問われたことに対しての新たな深化も進化も見せていないことに気付き、唖然となったのでした。「とにかく返事を返すことが大切で、少なくともその礼儀だけは失することはなかった、ああ、よかった」と安堵しているような、弛緩した自分を見る思いでした。お返事ロボットと化していたのです。
 飯島さん、お許しください。

 少し、ボク自身のことをおしゃべりします。
 ボクが通った小学校の校歌はどんな歌だったか。ぼんやりながら覚えているのは、歌い終わりの句が「西小岩」と繰り返される歌詞だったこと。そのことははっきり思い出せるのです。結構しつこく覚えています。通った小学校は江戸川区立西小岩小学校。社会に出るまでは東京都江戸川区小岩に住んでいましたから、地元の同級生とたまに道で出会うこともありました。まさか校歌を歌うと、仲間意識が確認できるなんて考えは、はなから持ち合わせてもいませんでしたが、なんらかのつながりを必要とするときには、校歌の最後のフレーズを口ずさめば、それだけで結構満足できたものでした。

 家の前を改正道路、いまは蔵前橋通りと言われている幅の広い通りですが、小岩駅北口の西で二股に分かれて、一本が当時は工事中でしたが、この工事中の道が新小岩を経由して平井大橋へと進む道、もう一本が四ツ木街道となって奥戸方面へと向かうのです。その分岐あたりを六軒島といいました。その六軒島に交番があり、交番と石屋さんの間の、細く曲がりくねった道を入っていくと、西小岩小学校の裏門に出ました。石柱の門扉を入ると、右手は民家が校庭に出張っていて、左手に木造の小屋があり、のちに図書館になったり、壊されてプールになったりしたのですが、ボクの記憶では卒業するまでは図書館だったような気がしています。校舎は逆L字の木造2階建てでした。

 ところが、風景は思い出せても、さて、校歌の歌い出しはなんだったのか、思い出せないのです。3部で構成されていた校歌の歌い終わりだけは鮮明に思い出せるのです。1番は「ああ うるわしき 西小岩」、2番は「ああ きよらけき 西小岩」、3番は「ああ かぎりなき 西小岩」。小岩町の西の一画をそんな高らかに誇らかに歌ってよいものかと、すこしばかり引いた気持ちで地名を斉唱して終える校歌だったのですが、はてさて、どうやっても全体が思い出せないので、ネットで検索すると、なんとまあ、便利な世の中になったものです。歌詞と曲が紹介されていて、そうそう、こんなメロディだったと、当時の細々した事柄もいっしょにくっついてきて、おかげで60年前の江戸川区西小岩の風景がマダラ模様とは言え、部分的には昨日のことのように鮮明になってきています。

江戸川区立西小岩小学校 校歌(詞=野村旻 曲=下総皖一)

1、朝日は昇る 青空に
  雲かとまごう 桜花
  学びの園に 咲きみちて
  ああ うるわしき 西小岩
2、け高き富士の 嶺遠く
  緑あやなす 木の葉かげ
  学びの窓に 照り映えて
  ああ きよらけき 西小岩
3、流れ果てなき 江戸川の
  水際に巣立つ 羽ばたきは
  学びの里に こだまして
  ああ かぎりなき 西小岩


 木造校舎の2階から、校歌に歌われたとおり、気高き富士山がシャープにすそ野を広げて見えていましたし、江戸川下流に東京湾へのショートカットフローとしての江戸川放水路の開削建設も姿を現しはじめ、さらには湾曲して流れる中川の洪水対策だったんでしょうか、新中川という定規で筋を引いたような直線的な新規の河川開削もぼぼ同時期に着工され、生まれて初めてみる巨大マシーンが動き回る工事現場には日曜日ごとに見学に行った覚えがあります。
 校歌に歌われていた「果てなき江戸川」までは家から歩いて20分くらいでしたし、江戸川に架かる鉄骨トラストの市川橋を渡って国府台までよく遊びに行ったものでした。その市川橋を渡る際、大型のトラックが通るたびに橋梁全体が激しく上下に揺れて、とても怖かったことが思い出され、そんな危険を冒しても、緑なす川向こうの国府台は魅力的な遊び場でした。

 序でと言ってはなんですが、中学校の校歌も思い出せる範囲でやってみると、なんとこちらは歌詞は覚えているのですが、メロディがどうやっても出てきません。わずか55年前のことにもかかわらず、ああ、どうしたことでしょう。小学校の校歌は思い出せて頭の中がすっきりしたというのに、中学時代はまるで暗闇。
 駄目モトでこちらもネットで検索すると、出てきました。しかもメロディもです。

千代田区立一橋中学校 校歌(詞=本校国語科 曲=国枝重寿)
 千代田の杜の緑濃く
 学びの街に生い立ちて
 まことの道を求めつつ
 集いは固し一橋

 理想の灯ははるかまたたき
 つとむる心に希望はあふる

 朝夕を師と共に
 文の林を分け入りて
 ああ向上の径拓かん


 昭和37年(1962)3月に、たしかにこの中学校を卒業しているのですが、こんなドラマチックなメロディだったとは、少しばかり驚きました。一節目の「千代田の杜」はフラットに、重々しく、二節目の「心に希望はあふる」になると一転、転調して甲高い高音で盛り上がり、そしてつづく第三節の「径拓かん」では胸を張り太い声で、なにかしらの決意を表明するぞ、そんな虚勢にも似た起伏あるメロディラインでした。ただし、この校歌を繰り返し何遍聞いても、かつて斉唱したはずなのに、歌えないのです。再現能力がまったく欠落してしまったのでした。ああ、困ったものです。

 そもそも、学校に対してのボクの希薄な思いから言うと、飯島さんが篤い思いでしきりに問いかけてくれた「釜石小学校の校歌」はなんとも新鮮で強烈でした。
 第一に西小岩だの千代田の杜だの、特定の地名が出てこないのです。地名が出てこないということは風景を描写する必要がないので、つまり、富士山とか西小岩などの地名がそもそも出てこないので、美しいとか、気高いとかの形容詞が登場しないんです。
 そのかわり、全編、どのように生きたらよいか、どのように話したらいいのか、具体的な動詞で構成されているのです。さらに、困ったときはどうしたらいいのか、具体的な動作が明示されていて、たとえば、「目をあげて、あわてずに、手を出して、ともだちと手と手をつないでしっかり生きる」と書かれている。骨太に生きるための指針そのものです。さすがに井上ひさしさんの文章でした。肉を削いで骨格だけで自律するジャコメティの彫刻。あの強靱な自律を思い浮かべてしまいました。

岩手県釜石市立釜石小学校の校歌
 いきいき生きる いきいき生きる
 ひとりで立って まっすぐ生きる
 困ったときは 目をあげて
 星を目あてに まっすぐ生きる
 息あるうちは いきいき生きる

 はっきり話す はっきり話す
 びくびくせずに はっきり話す
 困ったときは あわてずに
 人間について よく考える
 考えたなら はっきり話す

 しっかりつかむ しっかりつかむ
 まことの智恵を しっかりつかむ
 困ったときは 手を出して
 ともだちの手を しっかりつかむ
 手と手をつないで しっかり生きる


 この釜石小学校の校歌の詞を味わいながら、歌いながら、定員20名のバスで三陸へと向かう。これが今回のバス旅行の一つの目標でもあるのです。
 いかがですか。いっしょにこのバスに乗って、蓬莱島が浮かぶ大槌町大槌湾を訪ねます。ご一緒しませんか。袖触れ合うも他生のご縁です。10月19日(土)20日(日)の1泊2日のバス旅です。
 蛇足ながら、蓬莱島は井上ひさしさん作の「ひょっこりひょうたん島」のモデルになった島です。
by 2006awasaya | 2013-09-02 15:11 | 真剣!野良仕事


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