ソウルの若者たち1

2015.3.31(火)
ソウルの若者たち1 서울의 청년들1
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↑話しかけた訳ではないので、確かではありませんが、このお二人、日帰り観光でソウルに遊びにきたのでしょうね。「ソウルで一番未来的だと評判の、この東大門デザインプラザを見とかないわけにはいかない」と親戚からも言われて、東大門歴史公園駅で降りたはいいけれど、このあまりにも超現実的で未来的な雰囲気に溶け込めず、妙にハシャグばかりの、人目を気にしてばかりいるソウルっ子の間を遠慮しいしいベビーカーを押しながら、すり抜け、新奇な曲面で覆われた構造物の周囲を周遊し、数時間後には家路に。「それでいいんですよ。必要でもない物を無理して買うことも、無理して時代に追いついていかなくても、そのうち、時代の方から擦り寄ってきますから。その時に頑強に抵抗するか、許諾するか、無視するか、判断すればそれで十分で、それまでは気持ちを偽らずに過ごしていてください」と、後ろ姿に語りかけていました。40年前のボクに話しかけている気分でした。


 先週、ソウルに行ってきました。
 旅行のテーマは、
1=延世大学構内にある尹東柱(ユン ドンジュ)の詩碑を訪ねること。
2=国立中央博物館でほぼ一日過ごすこと。
3=去年出来た東大門デザインプラザに集まる今様の若者たちを見ること。
 だいたい、こんな3項目を見たりできれば上々の旅行だと思って出かけたのです。
 さらに、韓国語を習って3年目なので、その成果も若干確認したいという隠しテーマも抱えてはいたのです。

 実はほぼ1カ月前の3月7日、麻布にある在日韓人歴史資料館の土曜セミナーで、『東アジアの地域共同体構想をあらためて考える』というタイトルのレクチャーがあり、サブタイトルに「安重根の東洋平和論を手がかりに」とありましたので、余計に興味そそられて参加したのでした。講師は小川原宏幸さんという同志社大学の若き研究者でした。ボクも、もともと安重根という人物にはそこそこの興味もありましたし、『あらためて考える』というのであれば、混迷している日韓関係に、わずかでも考えるヒントを提示してくれるのではと、この土曜セミナーに期待していたのです。

 ボクの中の安重根は、以下のような通り一遍のものでした。きっとこれを読んでくださっているみなさまも、程度の差こそあれ、同じような知識量だと思います。

【安重根】 伊藤博文をハルビン駅にて狙撃した暗殺者。日本訪問中のロシア皇太子ニコライを大津で襲撃した津田三蔵のような人物かも。あるいは、神戸からニコライが帰国するのですが、帰国後に京都にてニコライへのお詫びとして自死した千葉県鴨川出身の畠山勇子という女性がいて、ひょっとして安重根はそんな彼女に似た激情家だったのか。

 この程度の知識しか持ち合わせておりませんでしたので、安重根の新しいイメージが上書きされれば、ソウルの南山麓、ソウル駅からも見える山並みの裾にある安重根義士記念館に行き、韓国での安重根評価の実際をきちんと確認できるかと思ったのですが、期待に反してこの土曜セミナーでは新規のイメージは披露されず、それで、今回は安重根にはまったく触れぬ旅行をしてきたのです。
 それゆえ、以前から興味を引きずっていた上記3項目を廻ってきたのです。

 ところで、2年前にソウル市内の大型書店を訪ねたおり、超高層の鐘路タワー地下2階にあるバンディ&ルニス チョンノ店(반디앤루니스종로점)と、斜向かいにある永豊文庫(영풍문고)は時間内に書籍を買うことも店内を見て回ることも出来たのですが、肝心のソウル最大の書店・教保文庫光化門店(교보문고 광화문점)には時間切れで行けず仕舞いでした。なので、今回はなにがなんでも立ち寄ることにしたのです。さらに今回の宿は景福宮駅のすぐ近くにある大元旅館新館。伝統的な韓屋の宿で、おまけに格安。しかもオンドル部屋。その上、旅館の女主人が日本語堪能。ネットで見る限り、ボクの発音をソウル風に矯正してくれそうです。さらにまた、歩いて1分のところに沐浴湯(モギョッタン=목역탕)、日本で言うところの銭湯があることが宿に荷物を置いたその瞬間に分かり、ああ、この旅館にしてよかったと、心の底から安堵したのです。
 会話力はまだまだですから、バスはまだ乗りこなせないものの、不自由なく乗りこなせる地下鉄の駅に近いこともあり、ほんとうに便利重宝安寧な宿でした。

■尹東柱の詩碑

 さて、尹東柱です。
 1945年2月16日、福岡刑務所で獄死した韓半島からの留学生。前々年7月、遊学先の京都にて特高に検挙され、治安維持法違反容疑で起訴され、福岡刑務所に送られ、獄死した詩人です。
 ボク、韓国語の勉強のつもりで、3年前に『名作を朗読で学ぶ美しい韓国語』(張銀英著)を購入。この本の中で尹東柱の詩を知ったのでした。尹東柱の詩を朗読するアナウンサーの声の調子も素晴らしく、何遍も何遍も聞き返すうちに、対訳の日本語だけでは満たされず、尹東柱全詩集『空と風と星と詩』を買い求め、東柱の詩業を代表する「序詩」を刻んだ詩碑が延世大学構内にあることを知り、機会があれば訪ねたいと、そのように考えていました。


윤동주 서시

죽는 날까지 하늘을 우러러
한 점 부끄럼이 없기를,
잎새에 이는 바람에도
나는 괴로워했다.
별을 노래하는 마음으로
모든 죽어가는 것을 사랑해야지.
그리고 나한테 주어진 길을
걸어가야겠다.
오늘 밤에도 별이 바람에 스치운다.
1941.11.20


 この有名な詩は、いままで伊吹郷(影書房、尹東柱全詩集)の訳でしか知りませんでしたが、ネットで調べると他の方たちの翻訳も多数あり、上野潤氏の訳をここに転載します。掲載に万一の不都合があればご連絡ください。
 ここに掲載した尹東柱の序詩の原文は、延世大学構内に建つ「 윤동주 시비 」 から写しとりました。碑面にはタテ組のハングルで刻してありました。尹東柱自筆とのことでした。


서시
序詩

죽는 날까지 하늘을 우러러
息絶える日まで天を仰ぎ

한 점 부끄럼이 없기를,
一点の恥の無きことを、

잎새에 이는 바람에도
木の葉にそよぐ風にも

나는 괴로워했다.
私は心痛めた。

별을 노래하는 마음으로
星を詠う心で

모든 죽어가는 것을 사랑해야지.
全ての死に行くものを愛さねば

그리고 나한테 주어진 길을
そして私に与えられた道を

걸어가야겠다.
歩み行かねばならない。

오늘 밤에도 별이 바람에 스치운다.
今夜も星が風に擦れている。

1941.11.20 東柱


 ソウル駅から京義中央線でひと駅の新村駅で降り、改札を出て北口に出ました。駅舎自体が高台にあり、坂を下ると正面には延世大学の大学病院です。右手には梨大、つまり梨花女子大学が広がり、通学の女子大生たちが胸を張って足早に歩く姿が多数あり、しゃんとした歩きように見とれてしまいましたが、これから訪ねる延世大学は梨大とは逆の、左手に坂を下っていくのです。

 ずんずんと坂を下ると大学正門。周辺はちょうど工事中で、フェンスに囲まれて、外からは中で何をやっているのかは見えません。正門から構内に入ってしまえば、右手サイドの斜面一面が喧噪を極める工事現場になっていて、折々に吹き付ける風が土埃を舞い上げ、学生たちは顔を伏せてそれぞれの学部へと歩いていました。

 正門から、奥へ奥へと進む道はちょうどV字の谷の底に付けられた道のようで、その両斜面は駆け上がるのもためらう程の勾配、その斜面の上に各学部の校舎が並んでいるようでした。
 やがてこの中央の道の突き当たりに像が立っていて、早稲田大学でいうところの大隈像にあたるのか、延世大学の建学者なのでしょうか。事前にほんのりとソウルからの道順までは調べていったのですが、大学の構内までは調べようがありませんでした。

 これほど広大なキャンパスだとは。
 その建学者像の先には駐車場もあり、角かどには警備を担当している警備員さんがいましたので、「尹東柱の詩碑はどこにありますか」と、自分ではかなり滑らかな韓国語で問いかけましたら、なんと、怪訝な顔をされてしまいました。ああ、そうか、少しばかり流暢に話してしまったので、警戒されたのかもと反省し、もっと日本人らしく、たどたどしく、一言ずつ区切り、まるで初めて英語を習った中学生時分を思い出しながら、インディアン英語で、「わたしは、日本から、来ました。尹東柱の詩碑、どこにありますか?」と、中年を大きく回り込んだ恰幅のいいおじさんタイプの警備員さんの瞳を覗き込むようにして聞いてみたのです。
 すると、「ああ、分かった。仲間に聞いてみるからちょっと待て!」と、手にしていたレシーバーに向かって、猛烈な早口で左手奥にいるもう一人の警備員さんと話しているではありませんか。話し終わると、レシーバーをもった手をかざして「あっちだ!」と指し示してくれるのです。うーん、通じた。ちょっと待てって言ってたのが聞き取れて、ただそれだけで2年間の成果が確認でき、極上の嬉しさでしたが、レシーバーの指し示す先に、もう一人の警備員さんが、こっちだこっちだと手招きしている姿を認めた時の嬉しさといったら。

 この国はこの程度の親切を気軽に繋げてくれる国だったんだ。

 3人目の警備員さんの手招きのおかげで、駐車場上の小公園にたどり着くことが出来、一礼してその親切に応えましたが、警備員さんの姿は既になく、尹東柱の詩碑の下で、学生たちのお母さんがたでしょうか、ベンチに腰掛けておしゃべりに花を咲かせているところでした。詩碑の裏面には、この碑建立の来歴などが記されています。写真には撮りましたが、まだ読めていません。いずれ時間に余裕を作って読んでみることにします。

 詩碑の背後に建つピンスンホールに入館しすると、外観は石積みの石造建築だと思っていたのですが、内部は木質の柔らかいな雰囲気のお部屋でした。
 尹東柱も、ここで3年程は暮らしたんだと、玄関脇のプレートに説明がありました。ここソウルのアカデミックなキャンパスも、今では到底考えられない暴虐な時代の風に吹き曝されていたでしょうし、夜空の星も、吹き荒れる風に擦られて悲鳴を上げながら瞬いていたに違いありません。傷だらけの満天の星と天空。

 序詩の最後の一行

 오늘 밤에도 별이 바람에 스치운다 
  今夜も星が風に擦れている

 なんとも名状しがたい一行です。

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↑延世大学の正門。ちょうど工事中だったので少し埃っぽい。この正門を入り、800メートルも歩いた左手に尹東柱の詩碑がありました。
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↑小公園の上部に、尹東柱の詩碑はあった。学生たちの母親だろうか、ゆったりとした雰囲気の中で寛いでいた。詩碑の背後に見える石積みの建物はピンスンホールで、尹東柱の記念館を兼ねた建物。
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↑詩碑に刻まれた「序詩」の部分を拡大。尹東柱の筆跡がうかがえる。序詩の最後に漢字で「東柱」と署名してあった。
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↑「ピンスンホールと尹東柱」と書かれたピンスンホール入口脇のプレート。学生たちが勉学と休息のために1922年に建てられ、文学部の学生だった尹東柱も1938年から1941年までここで過ごしたとある。

 来週は国立中央博物館で過ごした1日をアップします。
by 2006awasaya | 2015-04-01 11:20 | 行ってきました報告


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