DISCOVER CHIBA 千葉の小さな魅力発見!:行ってきました報告
2015-12-10T09:04:04+09:00
2006awasaya
千葉の魅力を発信します。千枚の葉をつける大きな樹となりますように。
Excite Blog
ソウルの若者たち1
http://awasaya.exblog.jp/23851390/
2015-04-01T11:20:00+09:00
2015-10-08T08:54:09+09:00
2015-04-01T11:20:10+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
ソウルの若者たち1 서울의 청년들1
↑話しかけた訳ではないので、確かではありませんが、このお二人、日帰り観光でソウルに遊びにきたのでしょうね。「ソウルで一番未来的だと評判の、この東大門デザインプラザを見とかないわけにはいかない」と親戚からも言われて、東大門歴史公園駅で降りたはいいけれど、このあまりにも超現実的で未来的な雰囲気に溶け込めず、妙にハシャグばかりの、人目を気にしてばかりいるソウルっ子の間を遠慮しいしいベビーカーを押しながら、すり抜け、新奇な曲面で覆われた構造物の周囲を周遊し、数時間後には家路に。「それでいいんですよ。必要でもない物を無理して買うことも、無理して時代に追いついていかなくても、そのうち、時代の方から擦り寄ってきますから。その時に頑強に抵抗するか、許諾するか、無視するか、判断すればそれで十分で、それまでは気持ちを偽らずに過ごしていてください」と、後ろ姿に語りかけていました。40年前のボクに話しかけている気分でした。
先週、ソウルに行ってきました。
旅行のテーマは、
1=延世大学構内にある尹東柱(ユン ドンジュ)の詩碑を訪ねること。
2=国立中央博物館でほぼ一日過ごすこと。
3=去年出来た東大門デザインプラザに集まる今様の若者たちを見ること。
だいたい、こんな3項目を見たりできれば上々の旅行だと思って出かけたのです。
さらに、韓国語を習って3年目なので、その成果も若干確認したいという隠しテーマも抱えてはいたのです。
実はほぼ1カ月前の3月7日、麻布にある在日韓人歴史資料館の土曜セミナーで、『東アジアの地域共同体構想をあらためて考える』というタイトルのレクチャーがあり、サブタイトルに「安重根の東洋平和論を手がかりに」とありましたので、余計に興味そそられて参加したのでした。講師は小川原宏幸さんという同志社大学の若き研究者でした。ボクも、もともと安重根という人物にはそこそこの興味もありましたし、『あらためて考える』というのであれば、混迷している日韓関係に、わずかでも考えるヒントを提示してくれるのではと、この土曜セミナーに期待していたのです。
ボクの中の安重根は、以下のような通り一遍のものでした。きっとこれを読んでくださっているみなさまも、程度の差こそあれ、同じような知識量だと思います。
【安重根】 伊藤博文をハルビン駅にて狙撃した暗殺者。日本訪問中のロシア皇太子ニコライを大津で襲撃した津田三蔵のような人物かも。あるいは、神戸からニコライが帰国するのですが、帰国後に京都にてニコライへのお詫びとして自死した千葉県鴨川出身の畠山勇子という女性がいて、ひょっとして安重根はそんな彼女に似た激情家だったのか。
この程度の知識しか持ち合わせておりませんでしたので、安重根の新しいイメージが上書きされれば、ソウルの南山麓、ソウル駅からも見える山並みの裾にある安重根義士記念館に行き、韓国での安重根評価の実際をきちんと確認できるかと思ったのですが、期待に反してこの土曜セミナーでは新規のイメージは披露されず、それで、今回は安重根にはまったく触れぬ旅行をしてきたのです。
それゆえ、以前から興味を引きずっていた上記3項目を廻ってきたのです。
ところで、2年前にソウル市内の大型書店を訪ねたおり、超高層の鐘路タワー地下2階にあるバンディ&ルニス チョンノ店(반디앤루니스종로점)と、斜向かいにある永豊文庫(영풍문고)は時間内に書籍を買うことも店内を見て回ることも出来たのですが、肝心のソウル最大の書店・教保文庫光化門店(교보문고 광화문점)には時間切れで行けず仕舞いでした。なので、今回はなにがなんでも立ち寄ることにしたのです。さらに今回の宿は景福宮駅のすぐ近くにある大元旅館新館。伝統的な韓屋の宿で、おまけに格安。しかもオンドル部屋。その上、旅館の女主人が日本語堪能。ネットで見る限り、ボクの発音をソウル風に矯正してくれそうです。さらにまた、歩いて1分のところに沐浴湯(モギョッタン=목역탕)、日本で言うところの銭湯があることが宿に荷物を置いたその瞬間に分かり、ああ、この旅館にしてよかったと、心の底から安堵したのです。
会話力はまだまだですから、バスはまだ乗りこなせないものの、不自由なく乗りこなせる地下鉄の駅に近いこともあり、ほんとうに便利重宝安寧な宿でした。
■尹東柱の詩碑
さて、尹東柱です。
1945年2月16日、福岡刑務所で獄死した韓半島からの留学生。前々年7月、遊学先の京都にて特高に検挙され、治安維持法違反容疑で起訴され、福岡刑務所に送られ、獄死した詩人です。
ボク、韓国語の勉強のつもりで、3年前に『名作を朗読で学ぶ美しい韓国語』(張銀英著)を購入。この本の中で尹東柱の詩を知ったのでした。尹東柱の詩を朗読するアナウンサーの声の調子も素晴らしく、何遍も何遍も聞き返すうちに、対訳の日本語だけでは満たされず、尹東柱全詩集『空と風と星と詩』を買い求め、東柱の詩業を代表する「序詩」を刻んだ詩碑が延世大学構内にあることを知り、機会があれば訪ねたいと、そのように考えていました。
윤동주 서시
죽는 날까지 하늘을 우러러
한 점 부끄럼이 없기를,
잎새에 이는 바람에도
나는 괴로워했다.
별을 노래하는 마음으로
모든 죽어가는 것을 사랑해야지.
그리고 나한테 주어진 길을
걸어가야겠다.
오늘 밤에도 별이 바람에 스치운다.
1941.11.20
この有名な詩は、いままで伊吹郷(影書房、尹東柱全詩集)の訳でしか知りませんでしたが、ネットで調べると他の方たちの翻訳も多数あり、上野潤氏の訳をここに転載します。掲載に万一の不都合があればご連絡ください。
ここに掲載した尹東柱の序詩の原文は、延世大学構内に建つ「 윤동주 시비 」 から写しとりました。碑面にはタテ組のハングルで刻してありました。尹東柱自筆とのことでした。
서시
序詩
죽는 날까지 하늘을 우러러
息絶える日まで天を仰ぎ
한 점 부끄럼이 없기를,
一点の恥の無きことを、
잎새에 이는 바람에도
木の葉にそよぐ風にも
나는 괴로워했다.
私は心痛めた。
별을 노래하는 마음으로
星を詠う心で
모든 죽어가는 것을 사랑해야지.
全ての死に行くものを愛さねば
그리고 나한테 주어진 길을
そして私に与えられた道を
걸어가야겠다.
歩み行かねばならない。
오늘 밤에도 별이 바람에 스치운다.
今夜も星が風に擦れている。
1941.11.20 東柱
ソウル駅から京義中央線でひと駅の新村駅で降り、改札を出て北口に出ました。駅舎自体が高台にあり、坂を下ると正面には延世大学の大学病院です。右手には梨大、つまり梨花女子大学が広がり、通学の女子大生たちが胸を張って足早に歩く姿が多数あり、しゃんとした歩きように見とれてしまいましたが、これから訪ねる延世大学は梨大とは逆の、左手に坂を下っていくのです。
ずんずんと坂を下ると大学正門。周辺はちょうど工事中で、フェンスに囲まれて、外からは中で何をやっているのかは見えません。正門から構内に入ってしまえば、右手サイドの斜面一面が喧噪を極める工事現場になっていて、折々に吹き付ける風が土埃を舞い上げ、学生たちは顔を伏せてそれぞれの学部へと歩いていました。
正門から、奥へ奥へと進む道はちょうどV字の谷の底に付けられた道のようで、その両斜面は駆け上がるのもためらう程の勾配、その斜面の上に各学部の校舎が並んでいるようでした。
やがてこの中央の道の突き当たりに像が立っていて、早稲田大学でいうところの大隈像にあたるのか、延世大学の建学者なのでしょうか。事前にほんのりとソウルからの道順までは調べていったのですが、大学の構内までは調べようがありませんでした。
これほど広大なキャンパスだとは。
その建学者像の先には駐車場もあり、角かどには警備を担当している警備員さんがいましたので、「尹東柱の詩碑はどこにありますか」と、自分ではかなり滑らかな韓国語で問いかけましたら、なんと、怪訝な顔をされてしまいました。ああ、そうか、少しばかり流暢に話してしまったので、警戒されたのかもと反省し、もっと日本人らしく、たどたどしく、一言ずつ区切り、まるで初めて英語を習った中学生時分を思い出しながら、インディアン英語で、「わたしは、日本から、来ました。尹東柱の詩碑、どこにありますか?」と、中年を大きく回り込んだ恰幅のいいおじさんタイプの警備員さんの瞳を覗き込むようにして聞いてみたのです。
すると、「ああ、分かった。仲間に聞いてみるからちょっと待て!」と、手にしていたレシーバーに向かって、猛烈な早口で左手奥にいるもう一人の警備員さんと話しているではありませんか。話し終わると、レシーバーをもった手をかざして「あっちだ!」と指し示してくれるのです。うーん、通じた。ちょっと待てって言ってたのが聞き取れて、ただそれだけで2年間の成果が確認でき、極上の嬉しさでしたが、レシーバーの指し示す先に、もう一人の警備員さんが、こっちだこっちだと手招きしている姿を認めた時の嬉しさといったら。
この国はこの程度の親切を気軽に繋げてくれる国だったんだ。
3人目の警備員さんの手招きのおかげで、駐車場上の小公園にたどり着くことが出来、一礼してその親切に応えましたが、警備員さんの姿は既になく、尹東柱の詩碑の下で、学生たちのお母さんがたでしょうか、ベンチに腰掛けておしゃべりに花を咲かせているところでした。詩碑の裏面には、この碑建立の来歴などが記されています。写真には撮りましたが、まだ読めていません。いずれ時間に余裕を作って読んでみることにします。
詩碑の背後に建つピンスンホールに入館しすると、外観は石積みの石造建築だと思っていたのですが、内部は木質の柔らかいな雰囲気のお部屋でした。
尹東柱も、ここで3年程は暮らしたんだと、玄関脇のプレートに説明がありました。ここソウルのアカデミックなキャンパスも、今では到底考えられない暴虐な時代の風に吹き曝されていたでしょうし、夜空の星も、吹き荒れる風に擦られて悲鳴を上げながら瞬いていたに違いありません。傷だらけの満天の星と天空。
序詩の最後の一行
오늘 밤에도 별이 바람에 스치운다
今夜も星が風に擦れている
なんとも名状しがたい一行です。
↑延世大学の正門。ちょうど工事中だったので少し埃っぽい。この正門を入り、800メートルも歩いた左手に尹東柱の詩碑がありました。
↑小公園の上部に、尹東柱の詩碑はあった。学生たちの母親だろうか、ゆったりとした雰囲気の中で寛いでいた。詩碑の背後に見える石積みの建物はピンスンホールで、尹東柱の記念館を兼ねた建物。
↑詩碑に刻まれた「序詩」の部分を拡大。尹東柱の筆跡がうかがえる。序詩の最後に漢字で「東柱」と署名してあった。
↑「ピンスンホールと尹東柱」と書かれたピンスンホール入口脇のプレート。学生たちが勉学と休息のために1922年に建てられ、文学部の学生だった尹東柱も1938年から1941年までここで過ごしたとある。
来週は国立中央博物館で過ごした1日をアップします。]]>
BaliでPapa Jegogに会う!
http://awasaya.exblog.jp/22612742/
2014-07-25T16:52:00+09:00
2014-07-26T13:28:53+09:00
2014-07-25T16:52:47+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
BaliでPapa Jegogに会う!
三男舜太が生まれる前ですから、もう20年以上前のことになりますでしょうか。妻の広子もボクも民族音楽が大好きで、なかでもインドネシアの音楽に無条件に惹かれる性癖があるようです。このバリ好き夫婦で行ってきたバリのジェゴグ報告です。
↑巨大な竹の楽器に潜り込んで撮らせていただいた写真です。もの凄い迫力でした。
↑憧れのPapa Jegog、Suwentraさんとの記念写真に舞い上がる広子でした。
↑コンサート終了近く、メンバーが太鼓を打ち鳴らしながら雄叫びを上げているシーン。来日した折のコンサートでは目にしなかったリラックスした楽しさが表情に満ちあふれていました。
Suar Agungを知るまで
今は亡き小泉文夫先生の『人はなぜ歌をうたうのか』(冬樹社)の中に、[ジャワのガムラン音楽の特徴]という見出しで整理された文章があり、一言でガムランを説明するのは難しいので、西洋音楽との対比でこんな説明しているくだりがあります。
「合奏の仕方に特徴があります。たとえばその中にとくに重要なところがあると、西洋音楽の場合だったら、その音は重要ですから、原則として大きな音を出します。たとえば、バッハの音楽などで、フーガにおけるテーマは非常に重要です。左手の小指を使って演奏しなくてはならないところにテーマが出てくると、そこのところをわざと強い音を出し、他の音を抑えながら演奏するという風に習っていますが、インドネシアのガムラン音楽では、重要な音は、重要だからこそ逆に、小さな音で演奏することが珍しくありません。
それから、旋律の重要な骨組みになる音は、わざと遅れて出すこともします。他の楽器といっしょにポンと出すのでは目立ちませんから。ジャワの楽器はほとんど叩く楽器ですから、目立つためには変わった音で叩くか、ないしは遅れて叩くのです。そうすると、その音が非常に重要だということが分かるのです。」
西洋音楽とインドネシアの音楽の考え方には、こんな基本的な差異があったんですね。
そういうちょっとした違いに目がいくようになると、いよいよ音楽の面白みが湧いてくるものです。
そのちょっとした違いが判る時期、1982年(昭和57年)に、バリから本格の舞踏団が来て、その公演を聞いたことが、ボクのはじめてのインドネシア体験だったような気がしています。
「楽舞夢幻ダルマ・サンティ舞踊団公演」と、公演パンフレットに楽舞夢幻の文字が躍っています。1982年10月6日(水)の国立劇場小劇場でした。
この来日の公演日程は10月5日が初日。翌6日の2日目を三宅坂で見た訳ですが、8-9日=ラフォーレ原宿、11日=宇都宮市文化会館、15日=滋賀会館、16日=神戸文化ホール中ホール、17日=京都会館第1ホール、20日=広島市青少年センター、22日=大分県立芸術会館、23日=武雄市文化会館、25日=鹿児島県文化会館、27日=那覇市民会館とつづき、西日本各都市を駆け巡り、急ぎ足でバリへと帰って行ったことが分かります。
その後、バリからさまざまな舞踏団が毎年のようにやって来て、その大半は東京公演を開いてくれるので、必ず聞きに行ったものでした。
東京公演があれば聞きに行きましたが、一度だけ、ウブドに近いタガス村のタガス・グヌンジャティ歌舞団の追っかけをやったことがありました。1990年(平成2年)の夏のことです。
タガス・グヌンジャティ歌舞団の公演がライトアップされた東京タワーをバックに、芝の増上寺境内で行なわれ、その翌々日には深川のお寺の境内で催され、タガス・グヌンジャティはコンサートホールのような閉ざされた室内空間ではなく、お寺や神社の境内でのオープンエアーでの公演スタイルにこだわっていたように思います。その最終公演が和歌山県新宮市の渚の宮であり、当時はほんとうに暇だったのか、そこまで追っかけで聞きに行ったものでした。この渚の宮会場が写真などで見るbaliそっくりで、黒潮に乗ってやって来たミクロネシア人たちがこの熊野の渚に船を乗り捨てて、さあ、お腹も減ってはいるけど、まずは陽気にやろうよと言っているような、晴れやかな表情で演奏していたのが今でも印象に残っています。
そして三男舜太が生まれる2年ほど前に、やっと現地バリに行き、本物の空気に触れることが出来たのでした。ウブドを中心に、タガスとかプリアタンとかギャニャールで開かれている音楽祭や夜の公演を巡り歩き、ケチャやガムランを聞いて回っている折、青銅製のガムラン楽器とは違った、竹の楽器によるグループ『Suar Agung(スアールアグン)』を知ったのでした。
竹の太さ、長さの違いで小型から大型の竹管打楽器を14台配置して構成されているアンサンブル、この編成をジェゴグと呼んでいるのですが、実際には竹の直径が20〜30センチはある巨砲としか言いようのない重低音担当の楽器をJegogと言うんだそうです。この編成を2組、左右に配置し、右のチームが気持ち良さそうにメロディアスな旋律を奏でていると、それを邪魔するように左のチームが不協和音で妨害に入り、しかしながらその妨害に負けてなるものかと右のチームがいっそう激しく自分たちのメロディーを主張し、そうなるとなおさら、気持ちよく演奏するチームを妨害阻害せんものと、邪悪で不気味な音階で割って入り、邪悪を主張する。会場全体は演奏者、観客を含め混沌として、何がなんだか判らないような、一種名状しがたい混乱に包まれ、やがて混乱に耐えぬいたチームが勝ちという演奏会がジェゴグのコンサートなのです。音楽を演奏しながら勝ち負けを競うという、ごくふつうの音楽世界ではあり得ない、不思議な演奏会なのです。
このジェゴグをバリのどこで聞いたのか、今では判然としませんが、その翌日、二人してサヌールやウブドの音楽ショップを覗いては、スアールアグンのカセットテープを探し求め、テープがあればすべてを買い求めました。当時はクレジットカードもなく、わずかな現金だけでのお買い物。バリのお土産はいっさい買えないまま、数十本のカセットテープだけを大切に抱えて帰ってきたような気がします。
はじめてバリに行った数年間は、本当に幸せでした。毎年のようにSuar Agungが日本公演にきてくれていて、バリに行く必要がなかったからです。一番強烈に記憶に残っているのは1997年8月、佐渡・小木港背後にある城山公園で行なわれたアースセレブレーションでのことです。三男舜太がまだ4歳前後の、妙に堅太りしていた時期に聞きに行ったことです。レンタカーを両津で借り、小木の小さな旅館に泊まり、翌日、一面の芝生が広がる城山公園で、ジェゴグの恐ろしいまでの不協和音の渦をものともせずに、転がったり跳びはねる舜太。聴衆も踊り狂ったように五体を躍動させているものですから、特段、舜太が騒ごうが泣き叫ぼうが注意もされず、好きなように暴れられる至福を味わっていたようです。
その翌年は山形の鶴岡で公演があると聞き、旅行手配をしたものの、仕事の都合で断念。翌年の1999年夏から、毎年のように来日。東京公演にはジェゴグを聞きに行き、その都度、Suar Agungのリーダー、Suwentraさんのさっそうとした指揮ぶりをほれぼれと客席から望遠。2008年、錦糸町駅北口にある墨田ポリフォニーホールでの東京公演を最後に、足が遠ざかってしまいました。天候に左右されない利点はあるものの、コンサートホールという閉ざされた室内空間で聞くジェゴグは、やはりちょっと違和感があるように思えてきて、Suar Agungの本拠地、バリ島の西部にあるヌガラという町に行って、実際の気温と湿度の中で、聞いて見たいと言う思いを肥大させていたのです。
いつかはヌガラで生のジェゴグを聞いてみたい、行ってみたいと思い続け、その思いが叶ったのが今年でした。
Papa Jegog、Suwentraさんがいた!
Suar Agungのリーダー、Suwentraさんは国内外の音楽雑誌にも紹介されている超有名なアーティストです。コンサートが始まる前にステージに立ち、曲目の紹介からジェゴグを構成する楽器の説明、ジェゴグの基本構造など、柔和な表情ときれいな日本語で説明をし、合掌しつつ深々と一礼し、くるりと客席に背を向けてステージ脇に引き上げて行くのですが、長髪を後頭にひっつめに結った大髻がふわりと揺れるシーンが何とも魅力的なのです。大きく弧を描くポニーテールの動きがコンサート開始を告げるミューズ神への合図なのかもしれません。
ジャカルタで国内線に乗り換え、バリのングラ・ライ国際空港から出迎えてくれたガイドさんの車でウブドのホテルにチェックインし、荷物を部屋に置いてすぐ、ホテルの車で、Suar Agungのジェゴグコンサート参加者が集合するパノラマホテルまで送ってもらったのです。ですが、途中、交通渋滞が激しく、約束の時間午後3時30分には5分ほど遅れてしまいました。日本を発つ前に、今夜のコンサート参加者は10名と聞いていました。10名に満たないとコンサート自体が催行されません。ングラ・ライ国際空港に着いてすぐ、出迎えてくれたガイドさんに事情を説明し、電話で確認してもらったのです。すると、10名は集まらなかったものの、8名でも実施してくれるとのことで、喜び勇んで集合場所に急いだのでした。
集合場所のパノラマホテルに着くと、玄関脇にどこかで見かけたような方がいるではありませんか。人違いかも判りませんが、でも、ステージの上でいつも笑顔を絶やさないSuwentraさんを見間違えることはありません。びくびくしながらも、『スアール・アグンのリーダーでいらっしゃる……』と、挨拶にもならない挨拶をすると、『ようこそ。お待ちしていました。スエントラです』と、カタカナを読むような発音で、見知らぬ日本人観光客の我々を出迎えてくれました。集合場所には案内のガイドさんかSuar Agungの若手スタッフが出迎えてくれると思い込んでいただけに、まさか、リーダーご自身が出迎えてくれていたとは。Suar Agungの魅力に魅せられて以来、年に一度はコンサート会場に足を運んできた我々です。そのリーダーのSuwentraさんご自身が出迎えてくれていたのです。すっかり舞い上がってしまいました。
すぐにトヨタのランクルに乗せられ、約3時間半先のヌガラへと走り始めました。あとで地図でウブドからヌガラまで、直線距離で60km、じっさいに走った道路をトレースすると、100kmはある一般道を走りに走って、ヌガラを目指します。途中、ウブド市街を出たところで交通整理の信号がありましたが、信号で整理された交差点はその一カ所だけでした。でも、道を譲り合ってのマナーが感じられて、怖い思いはしませんでした。運転はSuar Agungのメンバーが、そして助手席には、我々が憧れてきたSuwentraさんが座り、まあ、さまざまな話題をおしゃべりしてくれて、まったく飽きる暇もなく、途中2回、トイレ休憩で車を止めた以外はずっと車を走らせ、陽が傾きかけた7時前にSuar Agungの活動の本拠地に着きました。
車中、兼ねて聞いてみたかった事柄を尋ね、丁寧に返答していただき、コンサート以上の感動に浸る3時間30分でした。食べ物の話、天気の話、交通渋滞と道路事情の話、最近のバリ人気質の話、Suwentraさんご家族の話、イスラムとヒンドゥーの棲み分けの話、中国資本が入ってきている話、日本人観光客の穏やかで優しい振る舞いの話などなど。そのなかから、Suar Agungに関連する話だけをピックアップしてみますが、そのほんのサワリだけ。
Q いまのスアール・アグンと、10年前のスアール・アグンにちがいはありますか?
A スアール・アグンはアカデミックじゃないから、ユニバーシティに入らないと楽譜が読めない。新しい曲を作るのですが、団員は耳で覚えるため、1曲に3カ月の練習が必要。伝統的な曲ばかりだと若い人はあきてしまう。それでいつもいつも新しい曲のことを考えている。10年前のジェゴグのコンテストの頃から、地元では私は「パパ・ジェゴグ」と呼ばれている。私は好きなことだけしているから基本ハッピィだね。いつもニコニコしていられる。
Q バリにもたくさんの日本人プレーヤーが習いにきていると思いますが、バリ人プレーヤーと日本人プレーヤーではなにか違いはありますか?
A 私はバリ人、オランバリ。だからインナーパワーがある。日本人もガムランやジェゴグやダンスを習いにくる人、多い。日本人はすぐに覚えられて、テクニックはすごい。すごいけど、やはりバリ人の私たちのガムランやジェゴグとは違う。テクニックが巧ければいいと言うことではない。心の中にインナパワーがあるか、ないか。でも、私はサムライにはなれない。それと同じ。
Q いまスウェントラさんが抱えている音楽上の悩みはありますか?
A 一番太い竹がヌガラにはない。島の中央、山の奥の方に行かないと太い竹が見つからない。その一番太い竹をたたく専用のハンマーはゴムで出来た丸い小石のようなハンマー。昔はゴムの木を切って樹液を太陽にかざし、まる1日乾かして作りました。いまもそうやって作っています。一番前の楽器をたたくのは、古いタイヤを再利用したものを使っている。木のハンマーは、乗ってくると興奮のあまり激しくたたいて割れてしまう。ゴムは割れたりしない。
Q 日本公演は楽しいでしょうか?
A 若い人に、私たちが作り上げてきた音楽を託さないといけない、ということを私は坂東玉三郎さんに教えてもらった。新潟県佐渡で開催されているアースセレブレーションで、鬼太鼓座の舞台監督をしていたのが玉三郎さん。いろいろ教えてもらいました。いい人、真面目な人の元に神様は降りて来る。
夕刻7時30分にSuar Agungの活動本拠地に着きました。Suwentraさんの住まいでした。とても広い敷地奥の芝地に、大小14台のBamboo Xylophone Ensembleが並べられ、ランプと篝火の明かりが入り、それからの約2時間、大波にもまれ、うねりに身を任せるジェゴグ時間が始まったのですが、妖しいまでのこの数刻の印象はまた別の機会に報告することにします。
↑帰宅して、レコードやCDを整理していましたら、20年前にバリで求めてきたカセットテープが出てきました。写真左は1988年、地元ヌガラでの録音。中は1991年、FESTIVALでの録音。右は未だ若きSuwentraさんの顔写真を使ったパッケージ。これらのカセットテープは、デッキを処分してしまったので聞けませんが、その後発売になったCDに再録音されて発売されています。ただし、ビクターから発売されたCD「ジェゴグ/大地の響き」が重低音を大切にした名盤CDで、その後、あれほど買い集めたカセットテープはほとんど聞かなくなってしまいました。]]>
花見川遡上サイクリング
http://awasaya.exblog.jp/22170914/
2014-05-30T18:19:00+09:00
2014-06-16T15:34:27+09:00
2014-05-30T18:20:06+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
花見川遡上
↑東京湾岸の幕張から花見川を遡上してきました。印旛沼まで。まったくこれでは鮭ですね。道中で一番気持ちよかったのがここ、花島橋から弁天橋にかけてのこのエリアです。
↑花島橋から弁天橋にかけて未舗装のロードを走る勝さん。
↑花島橋から弁天橋にかけて未舗装のロードを走る長谷川です。
↑印旛沼のほとりにある佐倉市のオランダ風車にて。
自宅から自転車で湾岸道路に出て、千葉方面へ。ららぽーと、マリンスタジアム、メッセを横目でチラ見しつつ、大型車もバンバン走るので、絶えず正面を向いて慎重にペダルを30分もこぐと、花見川に架かる橋を渡ることになります。この橋を渡った先の海側にサイクリングセンターがあり、花見川サイクリングロードが川筋にそって設定されているのです。
サイクリングの先輩である勝さんから「気持ちのいい極上のサイクリングができる道ですから、近いうちに走りにいきましょう」とかねてよりお誘いをいただいていて、二人の空き時間がちょうど重なった5月25日(月)にこのコースを走ってきたのです。
いやあ、実走してみて驚きました。写真を貼付しますので、爽快を同感してください。
それ以上にただ今現在、感激しているのが荒木稔さんという方のブログに到達したことです。
誘われるままに花見川を遡上し、印旛沼まで走りに走り、予想外の逆風に逆らいつつも到達できたことも嬉しい限りですが、この荒木さんのブログを知ることができ、興奮しています。
利根川東遷とか、利根川の氾濫対策として印旛沼の水を新川・花見川を経由して東京湾に流すプランが江戸時代の享保・天明・天保に企画実施され、その度に失敗を重ねつつ、明治・大正・昭和にこの壮大な事業は引き継がれ、ようよう、昭和41年に酒直機場・大和田排水機場が竣工して「悲願」が達成された訳ですが、これらの歴史的事業を知ったのは快適サイクリングから帰ってきて翌々日、写真を整理しつつ、花見川の歴史を調べはじめてのことでした。
調べはじめると、やはり面白いですね。書籍では「印旛沼ものがたり」「印旛沼掘割物語」「江戸時代の土木技術」などが館内閲覧書として船橋中央図書館にあることが確認できましたので、いずれ近いうちに読みにいくとして、花見川開鑿工事を幕府が5つの藩に押し付けたことの記録はないものかと、ネットで調べていたのです。
それで先ほどの荒木さんのブログに到達したという訳です。世の中には「公開する」ということに大きな価値をおいている方がいるんですね。誰でも自由に、しかも無料でこうした知の集積にコンタクトできるということに第一義をおく方がいらっしゃる。
「花見川流域を歩く」http://hanamigawa2011.blogspot.jp/2014/04/blog-post_4.htmlという表題のブログですが、最近、こんなに優れたブログにお目にかからなかったので、余計に感動しています。地勢学に興味のある方はぜひ閲覧してみてください。
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釜山でうろうろ부산에서 어슬렁어슬렁
http://awasaya.exblog.jp/21568755/
2014-03-15T18:08:00+09:00
2015-12-10T09:04:04+09:00
2014-03-15T18:08:20+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
釜山でうろうろ
부산에서 어슬렁어슬렁
↑国立金海博物館に近い古墳公園にて。このあたりが狗邪韓国、あるいは現代韓国では金官加羅と呼ばれる王族集団の中心地だったとか。
■凡一から国立金海博物館へ
釜山(부산=プサン)に行ってきました。
かねてから訪ねて見たい博物館がありましてね。
国立金海博物館(국립김해박물관=クン二ップキメパンムルガン)と言うのです。釜山市西隣の金海市(김해시=キメシ)にあります。釜山市もここ数年の地下鉄路線網整備が進み、釜山の中心街から何回か乗り継ぐと約1時間弱で行けることがネット上でも確認でき、それで、この博物館に行ってみたいという思いがますます高まっていたのです。
去年になってから、より詳しい情報を得ようと、国立金海博物館のホームページ(http://gimhae.museum.go.kr/)を覗くと、2013年4月から館内展示方法を全面的に改装するとかで、その工事に9月間かかると書かれていました。指を折ると昨年末か遅くても今年の年始早々には完了しているはずで、2月に入ったら行く準備を始めればいいかと、楽しみを先延ばしにしていたのです。
ところが、楽しみは唐突にやってくるものですね。大学生になった息子の休みともちょうど重なったものですから、この2月下旬、便利な荷物持ちとして釜山に連れて行くことにしたのです。
金海国際空港(김해국제공항=キメクッチェコンファン)から釜山市内のホテルに荷物を置き、一息入れてから夕食を兼ねて、地下鉄で西面(서면=ソミョン)へ。ホテルは地下鉄1号線の凡一駅(범일역=ポミルヨク)から歩いて5分と交通至便な位置にあり、凡一駅から西面駅までは2駅分の距離です。この西面という街は東京でいう新宿歌舞伎町のような繁華街で、ボクが行きたかった書店、教保文庫(교보문고=キョボムンゴ)釜山店も西面駅から歩いて10分ほどのところにあります。この書店はソウルのビジネス街・鐘路(종로=チョンノ)にもある全国展開の大型書店で、ここで釜山市域の地図、韓国全土の道路地図、それに韓国語の勉強を兼ねて料理ブックを購入しようと、レジで聞くと、かなり広い店内の奥の奥のほうを指さします。天井からは各ジャンルを示す案内プレートが下がっていますから、すぐに分かります。幸いなことに「料理(요리=ヨリ)」と「地図(지도=チド)」が同じところに並んでいました。料理のコーナーは日本と同様、健康指向が強く、食べてきれいになるとか、野菜中心のメニューで健康になろうとか、さまざまな企画本が平台に並び、どれも買って帰りたかったのですが、地図2冊だけでも大変な重さで、仕方なく、料理関連の本は1冊だけということにしました。お粥の本も清潔そうなレイアウトで、とても惹かれたのですが、地図帳よりも大型の本でしかも重い。その隣りにあった365種類のサラダの本にしました。レイアウトがきれいで、しかも全365ページで構成されているB5サイズの大型本、『365샐러드(サムベックユックシムオーセルロドゥ)』を15,800원で求め、腹を空かせた息子のために焼き肉屋さんへ。それにしても、まあ、なんてよく食うのでしょうか。
釜山の地下鉄はホーム側にも転落防止シャッターがあるので、混雑していても線路に落ちることがなく、とても安心ですし、地下鉄の車内アナウンスも韓国語、日本語、英語の順で放送され、車内掲示用モニターも、東京の山手線車内のドア上モニターより大きなモニターがドア上ではなく、車内中央の天井近くにあるので、このモニターをちらちらと見ながら到着駅名をチェック。安心して移動できます。
さて、西面でウナギとカルビを思いっきり食べた翌朝、近くのコンビニで購入したオニギリ(1個80円位)の朝食を済ませ、国立金海博物館へ急ぎました。地下鉄1号線で凡一駅から蓮山(연산=ヨンサン)駅へ。蓮山駅で3号線に乗り換え、大渚(대저=テジョ)駅へ。ここで再び軽鉄道線に乗り換え、博物館(박물관=パンムルガン)駅で下車。この軽鉄道線というのはほとんどが高架の鉄道で、眺めがとてもいいのです。地下鉄の駅構内も似たような造りになっていて、本を読むか、息子とおしゃべりをするか、このどちらかの選択しかないので、正直なところ、あまり面白い時間とはいえません。座席が空いて座っても、うっかり寝込んでしまったら、途端に「今はどこ、私はだれ」状態の迷子になってしまいます。
↑博物館駅で降り、見下ろす階段の先、支柱におばさんが座っていました。このおばさんに博物館への道を聞いたのです。
凡一駅から乗り換えを2回して、1時間で博物館駅に到着。
ホームから階段を下り、国立金海博物館へ向かいますが、場所がいまひとつよく分かりません。
高架線はふつうのマンションの5階くらいの高さを走っていますので、地上に下りると、どっちが北か方角がチンプンカンプン。階段を下りた正面に高架線を支える円柱があり、その根元にうずくまるように腰を下ろしているおばあさんがいましたので、博物館の場所を聞いてみました。
「もしもし(여보세요=ヨボセヨ)。私、日本人です(저는 일본사람이에요=チョヌン イルボンサラミエヨ)。博物館に行きたいのです(박물관으로 가고 싶어요=パンムルガヌロ カゴシポヨ)。博物館はどこですか?(박물관은 어디이에요?=パンムルガヌン オディエヨ)」
たどたどしくこのように問い掛けましたが、知らん顔をされてしまいました。
やはりまだ、ボクの発音には問題があるのでしょう。あるいはボクのモノの尋ね方が上から目線だったからかもしれません。立ったままで突然「もしもし」ですから、礼儀を知らぬ無礼なヤツと思ったのかもしれません。
腰をかがめて、同じ目線でもう一度きちんと挨拶をしてみました。きちんとしているかどうか、それはかなり怪しいのですが、ボクとしてはきちんと。
「こんにちは(안녕하세요=アンニョンハセヨ)、国立金海博物館はどちらにありますか(국립김해박물관은 어디에 있습니까?=クンニップ キメパンムルガヌン オディエ イッスムニッカ)。教えてください(가르쳐 주세요=カルチョ チュセヨ)」。
するとまあ、「おやまあ、どうなさった?」といった軽い驚きの顔を浮かべてのち、手袋を脱いで人さし指で指し示してくれるではありませんか。確かに通じていたのですね。その指先の方角を見ると、写真で見たことのある煉瓦積みの四角い建物が、川の向かいの奥のほうに見えました。
「ありがとうございました(감사합니다=カムサハムニダ)。さよなら(안녕히 계세요=アンニョンイ ゲセヨ)」
お礼を言い、河原に飛び石で置いてある石伝いに川を渡り、対岸へ。ああ、もうすぐ金海博物館です。うきうき。
■国立金海博物館から東莱へ
舗道といい、車道といい、清掃がきれいになされています。舗道はカラータイルで、船橋でも住宅街や商店街にある吸水性のいいカラータイルでした。しばらく進むと、金海中学校があり、中学校の塀が切れ、その次が国立金海博物館の垣根が現われ、再び途切れ、付帯施設の通用門。この門から敷地内へ入っていけそうです。建物の正面に卵形の碑があります。うーん、このモニュメントは伽倻の建国神話に出てくる卵生神話の象徴なのかしら。首露王(수로왕=スロワン)が金の卵から生まれたことを表現しているんだろうな。卵の表面に「가야누리」と刻まれています。「カヤヌリ」と読めますが、「가야=カヤ」は文字通り「伽倻」でしょうね。「누리=ヌリ」は辞書を引くと「世の中」とありますから、「伽倻の世界」あるいは「伽倻の代」かな。辞書を持参してきてよかった。それにしてもこの書体はボクが大好きな書家さん、故・榊莫山先生のタッチそのものなんです。金海市にも、なんとも素晴しい書家さんがいるんですね。なんだかワクワクしてきました。
↑どうです、いい書体でしょ。榊莫山先生の書にそっくりでしょ。
ところで、本題の伽倻についてです。
日本では『三国志』魏志倭人伝に紹介されている国名・狗邪韓国が一般的なようです。
魏志倭人伝では「郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東し、その北岸、狗邪韓国に到る、七千余里」とあるように、帯方郡から韓半島を海岸線に沿ってたちまち東し、たちまち南し、狗邪韓国に到着。ここまで帯方郡から7000里。ここから先は海を渡って対馬に、壱岐にと飛び石を伝うようにして北九州へとコースをとった一行ですが、その渡海地点がこの狗邪韓国、すなわち伽倻なのでしょう(現代韓国では駕洛、金官加羅という日本語標記がガイドブックでも、日本語訳された韓国語のホームページでも多いようです)。
韓半島を高句麗(고구려=コグリョ)、新羅(신라=シルラ)、百済(백제=ペクチェ)で三分し、韓半島最長の長江、洛東江(낙동강=ナクドンガン)下流域のわずかなスペースが伽倻に当たるエリアです。
「物部はいやな(587)やつだと蘇我氏いい」。
日本史の年代を記憶する語呂合わせで、ボクは587年、物部氏滅亡と覚えたのでしたが、その滅亡に到る60年前に、伽倻からの救援要請を磐井に依頼し、拒絶されたところから勃発した「磐井戦争」が527年。このあたりの年代は、一度覚えると、なかなか忘れるものではありません。磐井戦争当時から韓半島では騒然としていたのでしょう。ついに新羅に侵攻されて、西暦562年に滅亡した伽倻国ですが、いま、そのほぼ中央に、ボクは立っている訳です。
ここ伽倻の首露王陵がある位置は、関西エリアに置き換えると、大和川の河口から内陸へ遡って藤井寺か羽曳野あたりに該当するのではないでしょうか。背後に急峻な山を背負い、南は洛東江が作り出したデルタ。鉄器と海洋進出で栄えた伽倻の都です。卵形の碑を背景に、記念写真も撮りました。もうすぐそこが伽倻についての新規発掘展示をする博物館本館です。なんだかいよいよ本気でドキドキしてきました。
↑国立金海博物館のシンボルモニュメントがすぐ近くに見えています。
↑赤いカーテンで覆われているあたりが正面入口です。
それにしても、今日が平日ということもありますが、見学者がほとんど見当たりません。そのかわり、静かな環境で館内見学できるのです。館内でいろいろ写真をとることになるでしょうから、受け付けで「写真を撮ってもいいですか?」の韓国語、「사진을 찍어도 돼요?=サジヌル チゴドテヨ」と、口からすらすらと出てくるように、何遍も何遍も繰り返し呟いていたのです。
「サジヌル チゴドテヨ」
すぐ左手を見ると、駅を下りてすぐにあのおばあさんに教えてもらった方角に見えた煉瓦の塔のモニュメントが間近に見えます。「국립김해박물관」(国立金海博物館)と縦組みで書かれています。その背後に茶褐色で低層の建物も見えます。さらにその背後には荒い岩肌を見せる山岳が見え隠れしています。
「写真を撮ってもいいですか」
再び正門まで移動し、館内略図と建物配置図を見直しました。配置図によると、目の前の幅の広い階段は館内見学を終え、下りてくる出口部分で、館内への正面入口はこの幅の広い階段左手の奥にあるはずなのですが、今は赤いシートで覆われています。それにしても人影がありません。
「사진을 찍어도 돼요?」
赤いシートをめくり上げて内部を覗くと、何やら工事中。一部は足場が組まれていて、展示という雰囲気はどこにもありません。
まさしく工事現場。しかも、ここにも人影がありません。仕方なく出口の階段を上がり、奥へと進みましたら、書類を抱えた少しばかり肥った女性がいましたので、「こんにちは(안녕하세요=アンニョンハセヨ)」と、元気よく挨拶をしたら、「日本語、大丈夫ですよ」と、ボクの挨拶言葉を聞いただけで日本人とわかったのでしょう、そんな優しい対応をしてくれる女性でした。
そこで、得意の日本語で、「国立金海博物館を見学するために来たのですが、閑散としています。昨年春からの改修工事が未だ終わっておらず、開館出来てないということでしょうか」と、ちょっぴり不満そうに苦情を申し上げたところ、大変恐縮したように背を丸め、頭を下げて「そう、そうなのです。3月に入ったら開館出来る予定でいま工事中なのです」と。
「でも、ホームページをチェックしてきたのですが」と、さらに不満そうに訴えると、「あと数日後の開館なので、まだホームページには記載してなかったのです。それはお気の毒なことをしますね」と、抱えている書類をさらに抱え込むようにして事情を説明してくれるのです。「それはお気の毒さまでした」と言うところ、『それはお気の毒なことをしますね』と言う表現がなんともかわいらしく、すべてを許す気になってしまいました。日本語の慣用句でも、表現次第ではこんなにも新鮮な響きがあるのだと、感動してしまいました。
さて、ここで恨み辛みの繰り言を言いつづけても、何の得にもなりません。
そうと分かれば、おいしいものを食べに行って、気分転換といきましょうか。博物館が休館だったこと、まことに幸いながら、息子も責めてきません。
「よし、おいしいお好み焼きを食べに行こう!」
「なにそれ。肉じゃないの!昨日食ったのは牛だったけど、次は豚って言ってたじゃない、サムギョプなんとかって言うんだっけ」
「いやいや、サムギョプサルって正確に言えよ。ほら、言ってみな。聞いてんのか!ま、いいか。牡蠣やエビやらが気ままに乗ったお好み焼きで、トンネパジョン(동래파천)っていう、美味いお好み焼きがあるんだ。去年ソウルに行った時も食べたろ。油で揚げてあるから外側はカリっとしてるけど、中はふわトロ。細いネギがぎっしり敷き詰められてるから、とろけるように甘いんだ。あのパジョンの海鮮風。うまいよ、期待していいぞ。釜山大学を見に行くついででもあるし、そのすぐ近くの東莱(동래=トンネ)という街においしい店があって、ここからそこまでは約1時間。地下鉄を2度乗り換えるだけだから、おまえは寝てればいいよ」
「ああ、そうする」
ここで注記ですが、ボク、ふだんの会話はとても穏やかな丁寧語を使うのですが、相手が自分の子どもだと、どうやら上から目線でモノを押し付けるようなぞんざいな物言いになるんです。蛇足ながら一言お断りしました。
■東莱パジョンからチャガルチ市場へ
さて、電車の接続が思いのほか良くて、45分で東莱駅到着。トンネパジョンをおいしくいただき、ビールもいただき、金海博物館に次いで行きたかった海辺の市場、チャガルチ市場(자갈치시장=チャガルチシジャン)に向かいました。
↑これがトンネパジョンです。ビールがことのほか、おいしかったです。
↑地下鉄から地上に出てきたところにこの看板。しっかりカタカナ表記もあり、なんの不安もありません。
↑これが農協ハナロマートの一階部分です。
地下鉄1号線チャガルチ駅(자갈치역=チャガルチヨク)で降り、地上に出ると、すぐ目の前に「農協ハナロマート」がありました。ここでおみやげ用のワカメを購入し、海のほうへと移動。うーん、本当に潮の香りがしてきましたよ。交わされている言葉も、どことなく漁師っぽい。
いやあ、凄い喧騒です。上野のアメ横の年の暮れでもこんな雑踏はなかなか出現しないだろうし、しかも上野の場合は高架下の一条ですが、こちらは何列もその横丁が入り組んでいるので、雑踏の流れに身を任せるしかないようです。あとで地図を見直しましたら、その雑踏は新東亜市場という市場で、そこをすり抜け、次に焼き魚の露店がつづく通りを抜けると、目指す市場にたどり着きました。日本語で「シーフード通り」と書かれている通りの海側が、全面ガラス張りのモダンな建物になったチャガルチ市場でした。
↑チャガルチの市場とビルを歩き回り、すっかり韓国っぽい雰囲気を漂わせています。写真の左手はすぐに海です。
市場ビルの中は大ざっぱに言うと1階が区分けされた鮮魚店、2階が食堂になっていて、どこも大変な人出。地元船橋の中央市場でも、水産のコーナーでは独特の掛け声で「らっしゃい! えー、らっしゃい!」なんで唸るような叫ぶような発声をしていますが、こちらでもきっと「安いよ、安いよ」とか、「買わなきゃ損だよ、持ってきな」などと道行くひとに話し掛けているんだろうと思うと、ああ、意味も分からずニコニコしてはいかんと、館内を一巡して出てきてしまいました。
そうだ、このチャガルチの市場ビルから海沿いに300mも東へ行くと、乾物専門の市場がありますので、そちらを見学してからホテルに引き返そうということになり、息子の同意も取りつけ、正面に釜山大橋とロッテデパートを遠見にしながら乾物横丁へと入って行きました。
↑乾物横丁です。本当に人影がないんです。
ところがどうしたことでしょう。乾物横丁には同じ間口の店先には店番もおらず、お客さんの姿もついに見ませんでした。猫の姿も見ませんでした。鮮魚のカジャルチではワラワラといた人影は、わずか200m、いえ、100m 離れただけで、閑散。閑古鳥。国立金海博物館状態です。
乾物横丁は海苔の専門店、ワカメの専門店、スルメの専門店、カワハギの専門店、チリメンジャコの専門店という具合に、乾物の種類で一軒一軒別々に軒を連ねています。しかも道を挟んだ向かい合わせが同種の乾物を売る店で並んでいます。乾物につづいて、韓方医薬で使う材料を商う店がつづき、ロッテデパートで突き当たりとなりますが、ああ、ついに全長300mの乾物横丁では、お客さんはボクら二人だけでした。
この乾物横丁のほぼ中央あたりがワカメゾーンで、そのうちの一軒の店先に、伝統的な乾物ワカメ(건미역=コンミヨック)を売っていたので、「これはいくらですか」(이건 얼마예요=イゴン オルマエヨ)と大きな声で店の奥にいたおじさん(아저씨=アジョシ)に声掛けしたら、日本語で「どうせ買うならこれのほうがいいよ」と、錆びた声が帰ってきました。
↑乾物横丁のほぼ中間点にあったワカメ専門店の店先。伝統的な乾燥ワカメを見つけ、店の奥にいたおじさんに声をかけました。
↑これが伝統的な乾燥ワカメの十字縛りです。一番上の一行は국산수산물(クッサン スジャンムン=国産水産物)と書いてあります。その下は품명(プンミョン=品名)と書いてあり、건미역(コン ミヨック=乾燥ワカメ)と書かれています。その下、文字が大半蹴られていますが、원산지(ウォンサンヂ=原産地)と書かれていて、これは기장산(キジャンサン=機張産)と書かれていました。おじさんの話では、最近は中国産のワカメが入ってきていて、安いので困っていると言っていました。
ボク この十字に結ぶのが伝統的な乾燥ワカメの韓国スタイルだと聞いたんですが、現物を見たのはここが初めてでした。一つおいくらですか?
アジョシ 500ウオンだよ。水で戻すと10倍に膨れるから、大きめの桶でやるといい。それよりいいワカメがあるからおみやげにどう?
ボク 機張(기장=キジャン)のワカメですか?
アジョシ 機張のワカメもあるけど、ウォンドのワカメもいいもんだよ。おみやげにはそれがいい。
ボク 高いのですか?
アジョシ ああ、高いよ。
ボク いくらですか?
アジョシ 7000ウオン。
ボク 4つください。
アジョシ これはどうする?
ボク それも4つ。
ああ、いい買い物をした。機張のワカメは日本でいうと三陸ワカメかな。ウォンドのワカメって、どこだか分からないけど、鳴門のワカメって感じなのかしら。もちろん、三方を海に面した韓国では、ワカメにもいろいろな名産地があり、それぞれの産地にはそれぞれの贔屓筋がいるんだろうな。ボクは一時期、房総半島の南端に近い内房の太房岬の館山湾側で獲れる大葉ワカメを贔屓にしたことがあったなあ。塩蔵ワカメだったなあ。それ以前には外房勝浦のワカメも贔屓にした時期があり、これも塩蔵ワカメだったなあ。つい最近は三陸ワカメを贔屓にし、食べて応援することにしていますが、気になるなあ。ウォンドってどこなんだろう。
ホテルに帰って、買ったばかりの韓国全土地図で調べたら、全羅南道(전라남도=チョルラナムド)の南にある島で、済州島まで南へ100km、釜山まで東へ240km ほどに位置する島でした。すぐ西には干満の差が激しいことで知られている珍島があり、日本の佐世保九十九島周辺とよく似た多島海風景が広がる穏やかな一帯なのでした。序でに携帯mapで調べたら、日本名は「莞島」(원도=ウォンド)でした。
で、結局、伽倻を中心に据えた古代韓国紀行のつもりで釜山を訪ねた今回は中途半端なワカメ報告「釜山でうろうろ=부산에서 어슬렁어슬렁(プサネソ オスルロンオスルロン」となってしまいましたので、出来るだけ早めに、捲土重来、国立金海博物館に再チャレンジするということで、アンニョンハセヨ。
↑帰宅して、伝統的な乾燥ワカメがどんな程度のワカメか、食べてみないと分かりません。さっそく水で戻してみました。これは直径10センチ程度の乾燥ワカメです。
↑水で戻して半日、十字の縛りもほどけて、ボウルいっぱい。肉厚で日本でふつうに買うワカメと変わりありませんでしたが、これで50円ですから、日本国内産は価格競争に曝されると、いよいよ厳しいでしょうね。]]>
ソウルの大型書店とキリストの受難像
http://awasaya.exblog.jp/18928538/
2013-03-25T16:25:00+09:00
2013-07-01T18:23:25+09:00
2013-03-25T16:25:37+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
ソウルの大型書店とキリストの受難像
仁寺洞へ
一昨年の暮、昨年の7月と、ソウルに行く機会がありました。行けば必ず仁寺洞=インサドン(인사동)に足が向かいます。
今回も真っ先に歩いてきました。いわば表敬訪問みたいな気分で南から北へ、北から南へ紆余曲折を繰り返しながら、何度も往復してきました。
もともとがオシャレな骨董通りです。王朝の正宮でもある景福宮=キョンボックン(경복궁)に近いこともあり、上品なお菓子屋さんとかお茶屋さんが一本入った脇道に隠れるように店を構えていたりして、さすがインサドンだなあ、伝統の奥深さが違うものだなあと、嬉しくなってついニヤニヤしながら、行ったり来たり、うろうろキョロキョロ。京都御所周辺の町歩きにも似た気分で歩けるのも、面白みの一つでしょうか。
脇道、裏通りにも発見が潜んでいますが、表通りには老舗の文房具店とか骨董品の店がずらりと並び、この多少ホコリっぽいたたずまいに魅せられてきた日本人も多いと思います。ボクはぶらぶら歩きをしながら、韓紙=ハンジ(한시)を求めつつ数店をめぐり、それぞれの店独自の手漉き韓紙を求め、ああ、いい買い物ができたと、買い求めた韓紙を筒状に丸め、大切に抱えてホテルに戻り、再び夕飯に出て行くというパターンでソウルの街歩きを楽しんできました。
前回も前々回も、さらに十数年前も気持ちよくいい買い物ができたのですが、この3月中旬に再びインサドンを歩いてみましたら、お店がずいぶんと商売替えをしているではありませんか。必ず立ち寄っていたお気に入りの韓紙屋さん5軒のうち、3軒はカフェ、飴屋さん、空き家になっていて、しかも、残りの2軒のうち、表通りの角にある韓紙屋さんは品揃えを大幅に変え、浅草仲見世の土産物屋さんと見まごうばかりの変貌ぶり。客層が町を変えるんですね。筆や硯、墨や紙を求める客層は極々わずかで、代わって若い世代はスマートフォンをもてあそびながら化粧品とオシャレなファッション目当てに闊歩しています。デジタルな世代には文房四宝は訳の判らない煩わしいだけの無用物なんでしょうか。
ま、しかたがないか、時代が変わったんだ。日本だって変わってしまったんだから。
ちょっと肩を落として、インサドンキルから地下鉄3号線が走る道幅の広い社稷路=サジンノ(사직로)に出て、V字に折れ、郵政局路=ウジョングノ(우정국로)を南へ。途端に東京の丸の内を歩いているような雰囲気です。背筋をしゃんと伸ばしたサラリーマン風の男女が、結構なスピードで大股で歩いています。手にはテイクアウトしたコーヒーカップかiPhoneよりずっと大きめのスマートフォン。ワンブロックにひょっとしたら2軒くらい、スターバックス(스타벅스)があり、ソウルっ子がこんなにもコーヒー好きだったのかとちょっぴり嬉しくなります。
少し前のソウルのコーヒー屋さんで飲むコーヒーの味って、賞味期限切れのインスタントコーヒーか、トウモロコシ茶にコーヒー味を強引に添加したような、何とも言いがたい味のドリンクだっただけに、スタバっていうのはマクドナルドよりも凄いなあ。シアトルで飲んだコーヒーもお茶の水で飲んだコーヒーも、明洞=ミョンドン(명동)で飲んだコーヒーも、まったく同じ香り、テースト、おいしさ。世界標準というのは偉いもんだなあ。そんなことに感心しながら、郵政局路を南へ歩いて500m、鐘路=チョンノ(종로)との交差点に出る。広い広いこの交差点の地下には地下鉄1号線の鐘閣駅=チョンガッギョク(종각역)があり、鐘路交差点に斜めに向かい合う位置に、ソウルでも一二の大型書店が集中しています。
バンディ&ルニス チョンノ店へ
韓国の出版事情を見てみたいという思いから、これら大型書店を見学するのが、今回の旅行目的の一つ。インサドンの激変ぶりに肩を落としつつも、まずは超高層ビルの鐘路タワーの地下2階にあるバンディ&ルニス チョンノ店(반디앤루니스종로점)へ。
↑バンディ&ルニス チョンノ店のレジ近く。ベストセラーの円柱が気になりましたが、「やればできる」とか「スティーヴ・ジョブズに学ぶ人生の過ごし方」のような自己啓発タイプの書籍が多かったような。でもどんな本なのか、正確には分からないまま、広々した店内へ。
↑趣味のコーナーには、こんな具合に座り込んで立ち読みする客が結構目に付きました。
↑地下鉄鐘閣駅へ向いた出入口。
驚いたことに店内の明るさ。書棚の間隔も広く、あまり圧迫感なく本選びができる。店内通路は大理石で冷たくクールだが、書棚が並ぶスペースにはジュウタンが敷かれていて、歩いた時の当たりがとっても柔らか、ゆったり気分。ところどころにイスも置かれている。これも嬉しい配慮。このジュウタン敷きに座り込んで立ち読みしている客が多いのが気になったが、ひょっとして座り込みをこの書店では許しているのかもしれない。
そんなことを考えながら、店内を一巡。地下2階が地下鉄鐘閣駅への乗り換え通路に口を開けているので、通勤客も途中下車して立ち寄れる。これは便利だろうな。レジ近くの柱巻きにベストセラーのコーナーがあり、そこに並んでいたのは雰囲気としては自己啓発(자기계발)関連の書籍が多かったような気がしました。
永豊文庫へ
いったんこの地下鉄出入口から鐘閣駅を経由して、交差点向かいにある永豊文庫=ヨンプンムンゴ(영풍문고)へ移動。こちらの書店は地下1階・2階からなり、やはり広い広い。地下1階のフロアーが東京駅八重洲にあるブックセンターの各階フロアーを合わせたくらいのスペースかな、AからHまでジャンルごとに分類。この分類は未確認ですが、バンディ&ルニスでも同様だったような気がします。Aは小説(소설)・エッセイ(에세이)・詩(시)・マンガ(만화)、Bは芸術(에술)、スポーツ(스포츠)、旅行(여행)、料理(요리)、健康(건강)、趣味(취미)、雑誌(잡지)類と分野別に整理され、Cは幼児(유아)から児童書(아동)、高等教育書(초등학습 )、Dは中・高等教育書、Eは工学(공학)、コンピューター(컴퓨터)、科学(과학)、医学(의학)、Fは辞書類(사전)、外国書籍(외국서적)と日本書籍、Gは経済(경제)、経営(경영)、自己啓発、Hは人文(인문)、宗教(종교)関連の書籍や雑誌がきれいに整理されていた。ハングルのmemoを取るだけで1時間も食われてしまい、レジ(계산대)のスタッフから変な目で見られていました。ただし、こちらでは座り込んでの立ち読みが禁止されているようで、座り込んで読んでいる客がスタッフに注意されていた。あれ、オタクでは座り込み読書は認めてないの?っていう尖った反応を見せつつ、しぶしびスタッフの注意に従うってシーンをAゾーンのマンガコーナー、Bゾーンの趣味コーナーとGゾーンの自己啓発周辺で多く見ました。ついでに地下2階に降りていくと、そこにはアップルコンピューターやスタバ、ミニレストラン、文房具などが並び、銀座伊東屋かロフトにいるようで、ここも楽しかった。いやあ、韓国語がばりばりなら、丸々一日いても飽きないだろうな。
↑ヨンプンムンゴの店内。整然として分類された書棚。
↑「小説、エッセイ、定番」とジャンル分けされたベストセラーコーナー。
↑鐘路交差点にあるヨンプンムンゴの出入口。左にある看板に「冊香」とあったが、その意味がついにわかりませんでした。座り込んで立ち読みすることは禁止でも、イスに座ってしっかり読めるコーナーがあったような記憶がありました。船橋西武の三省堂書店では、同じフロアーにあるカフェに持ち込んでの読書OKで、ひょっとしたら同じ発想?
明洞聖堂へ
予定ではこのあと、世宗路=セジョンノ(세종로)の李舜臣将軍像脇にある教保文庫=キョボムンゴ(교보문고)に行くつもりでしたが、時間が足らず、まことに残念ながらこちらは次回ということで、いったんホテルに引き返し、かねてから見てみたいと思っていた石像に会いに行きました。場所は明洞聖堂。
ソウルの街中を歩いていると、いまでこそ超高層ビルが林立していて、なかなか見ることはできませんが、昔は南山タワー同様のランドマークだった煉瓦積みの巨大聖堂。移動していると、必ず尖塔部分が見え隠れしていたので、ああ、あそこにあるな、今度機会があったら行くことにしようと、改めて訪ねるという強力なきっかけもないままに訪ねずにいましたが、ちらちら見え隠れする明洞聖堂の境内というか敷地に、장동호(チャンドンホ) 作の、鑿痕が強烈に残るキリストの受難石像があると分かり、教保文庫にはまことに申し訳ありませんが、こちらを優先しました。
↑ミョンドン聖堂への参道というかスロープは工事用の塀に囲われていて、歴史資料としての写真が掲出されていた。
韓国のキリスト教の総本山としてあまりにも有名な明洞聖堂は小高い丘の上にありました。立地の場所が小高い丘の上だってことも、実際に訪ねるまでは判らなかったことで、このことにもちょっぴり驚いています。ミョンドンという地区は東京で言う銀座に相当する繁華街で、昼よりも夜のほうが賑わいをます一帯。賑わいを、一日の終わりに近い夜にピークするって一点で「銀座」だと思い込み、銀座だとすると、立地も銀座同様に平らで狭いところに商業ビルが建ち並んでいるとの思い込みがあり、まさかこんな起伏の激しい地勢だとは思いもしませんでした。冷静に振り返ってみるに、銀座というよりも、坂の多い渋谷に近いのではないでしょうか。同じ繁華街の渋谷だとすると、明洞聖堂の建つ位置は宮益坂を上がった青学あたりか、東急のセルリアンタワーがある桜ケ丘町あたりに似ているといったらいいでしょうか。
ところが、なんと間の悪いことに明洞聖堂の周囲はちょうど工事中で、参道両サイドがフェンスに囲われていて、拝観できないのではないかと危ぶんでいましたら、礼拝に訪れた方がいて、その方のお伴のように装ってフェンス伝いの階段を上ると、いきなり写真で見てきたあの煉瓦積みの大聖堂が覆いかぶさるように正面に立ち現れていました。
おお、ミラノの大聖堂も大きかったけど、ミョンドンの大聖堂も大きいなあ。で、お目当ての石像はどこにあるのか、敷地図のようなものがあればそれで足りるのですが、あいにく見当たりません。守衛さんのような方がいたので、勇をふるい、インディアン英語のような拙い韓国語で「キリストの石像はどこですか?=クリスト エ ソクザン オディエヨ(그리스도의 석상 어디에요?」と聞いてみましたら、案の定、ボクの発音がうまくなかったようで、キョトンとされてしまいました。再び尋ねても同じ表情を返され、仕方なしにインテルの長友がよくやるように頭を下げてから聖堂の周りを一回り。
なんと、聖堂の脇にある司祭館のような建物の植え込みに、あの有名な石像がありました。ボクが今までに見たキリスト受難の石像の中で、この東洋の彫刻家が彫り出したキリストほど、圧倒的な悲しみを静かに抱え込んだ石像は知りません。添付した写真に説明板が写っていますので、それを日本語訳します。
작품명(作品名) 사형선고받으심(死刑宣告を受けた心) 1994
작가(作家) 장동호(チャンドンホ)
재료(素材) Marble of Carrara
규격(寸法) 92×95×213cm
↑一番のお気に入り石像。
胸元にある3本の錆びたクギはなんの黙示録なのでしょうか。頭蓋に刺さった荊のクギを3本だけ抜いたものなのか。残された荊はどうするんだろう。そんなこんなの意味を考えながら、右肩上がりの成長曲線に浮かれ気味のソウル市民に、やんわり、釘でも挿しておきたい気分もあり、ミョンドン駅方面へ下りていきました。
たとえインサドンが浅草仲見世になってしまったとしても、八つ当たりに似たこんな考え方って、やはり穏やかではありませんね。反省反省。]]>
宮田リンゴ園にリンゴ狩りへ
http://awasaya.exblog.jp/18141180/
2012-11-06T19:50:00+09:00
2012-11-07T17:13:11+09:00
2012-11-06T19:50:16+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
↑長野県立科町五輪久保の柳沢リンゴ園に飯島幸三郎さんがお願いしているリンゴは葉摘まずリンゴ。当然、色はさえないリンゴですが、とてもうまい。一方、群馬県川場村の宮田リンゴ園のリンゴはまんべんなく玉回しをし、樹下に反射板を敷き、たっぷりの陽光を吸収したリンゴです。品種はその名のとおり「陽光」。ご主人の宮田さんは「今年は陽気の加減も良く、苦労の甲斐が実ったリンゴだ」と胸を張っていました。
↑夫婦で夢中になってリンゴ狩りをしていましたが、うちの小夏はグリーンのカーペットが足裏に気持ちよかったのでしょう、樹下を走るでなく寝そべるでなく、ひたすら歩き回っていました。
↑小型のコンテナー4つ、これが今年の収穫全量です。コンテナー一つに約50個ですから全部で約200個。収穫した全量は大振りでキズもなく、鳥につつかれた痕も見られませんでした。丹念に玉回しをしてくれたその作業に頭が下がります。来年からはこの玉回しの作業をご辞退しようと考えています。
宮田リンゴ園にリンゴ狩りへ
子どもたちの都合がつかず、今年は犬と夫婦だけでリンゴ狩りをしてきました。ウイークデイの早朝に船橋を出発し、外環から関越経由で沼田で下り、11:00前には群馬県川場村の宮田リンゴ園に到着。高速道路が空いているとこんなにもスムーズに走れるんだということが判りました。高速代の元を取ったようで、久々にいい気分です。
狩り取りを始める前に、ご主人の宮田さんに、リンゴの皮の色と果肉の関係について聞いてみたのですが、やはり皮の色と果肉のうま味、味わいはほとんど関係ないということでした。この宮田さん、農林水産省のホームページにも(「日本の篤農家」)として紹介されている志の高い農業人です。
それなら何故、面倒で厄介で、高所作業で危険な「玉回し」という作業をするのでしょうかと問うと、「見た目も大切なおいしさの要素でしょ」と、含羞んだような笑顔でぼそっとひと言。ウ〜ン、篤農家らしい、味わい深い笑みでした。
剪定をし、授粉をし、リンゴの木全体を見ながら摘果をして、一つ一つ実を選んで玉を回す。まったくご苦労様です。
そうしたご苦労が分かると、おいしさも一入のものがありますね。あだやおろそかに食べ急いではいけませんね。ゆっくりしっかり、味わいながら食べることにしましょうか。]]>
日本橋亭にて講談三昧
http://awasaya.exblog.jp/17884655/
2012-08-20T21:27:00+09:00
2012-08-24T10:38:40+09:00
2012-08-20T21:27:38+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
日本橋亭へ講談を聞きに
↑日本橋亭前にて内藤先生と一緒に、記念撮影。前列お三人の左がお元気な内藤先生。背後霊にも似た後列二人がボクと妻。内藤「今宵はわたしが講談を語るんじゃないのよ」 妻「え? ええ、そうです、よね。先生がやると漫談になっちゃうかも」。うきうきした開演前のこうした空気が、ボク、大好きなんです。
久しぶりに夫婦で日本橋界隈を歩いてきました。
妻はこの日、大学のクラスメイトと横浜の美術展に行き、ランチをして寛ぎ、帰宅途中に日本橋界隈で落ち合うことにして朝、うきうきしながら家を出ていきました。時間を気にせずに交わすクラスメイトとのおしゃべりが嬉しいのでしょうね。昭和通りに面した和紙の専門店・小津和紙で待ち合わせとしました。実は小津和紙は、かねてから行ってみたかった和紙屋さんでしたから。ボクもそんな理由でうきうきして、ひとりソーメンをすすり、ひと休みしてから出かけました。
2年前、『首都圏旧街道を歩く』という本を出版するに際して、日光道中を歩いた折、出発地点の日本橋から小伝馬町に至る途中、あれれ、こんなところにこんな立派な和紙屋さんが店を構えていると驚いたお店で、その時以来、機会があったら訪ねてみたい専門店でした。今回、待ち合わせの時間より1時間も早く到着し、ゆっくりと店内を一巡二巡三巡。和紙の品揃えはさすが日本橋に店を構えて数百年という老舗だけに、ちょっぴり恐ろしいものがありました。店員さんの和紙に関する博学にも目を見張るものがあり、和紙好きのボクには、和紙の匂いを感じつつ店内を歩くだけで幸せそのものでした。つい先月のこと、ソウルに行く機会があり、インサドンに韓紙を求めに行ったのです。畳一枚分の大きさからお習字のお稽古用の半紙、さらにぼってりと分厚に漉いた韓紙など、いろいろな大きさと種類を求めてきましたが、そんな韓紙に似た和紙がこちらでも買えることが分かりました。ただし、値段はソウルの10倍以上でしたけど。また、筆からパソコンに筆記用具を持ち替えた和紙好きの方々のために、インクジェットプリンターでも紙づまりしないという専用和紙もいろいろの品揃えがあり、写真印刷に適正のある表面加工を施した和紙や、和綴じ本用の廉価なインクジェットプリンター用半紙までいろいろ購入でき、和紙だけがもつやわらかく穏やかな風合いをここ当分は楽しめそうです。洋紙のメッカが神田錦町にある竹尾見本帖本店だとしたら、和紙好きの聖地はここかもしれません。
気持ちよくお買い物をして、小津和紙から歩いて3分の日本橋亭へ。講談を聞きに行くのです。
講談をライブで聞くのはボク、生まれてはじめてのことなので、心のあちこちがこわばっています。やがて開演ベルなどの合図もなにもないままに、開演。まだぎこちない所作の前座さん、異様にハイテンションな二つ目さんの講談を聞きながら、さて、落語とどこが違うんだろうと、間違い探しゲームをやっているような面持ちで聞き比べをしていました。張り扇を見台にパパン、パン、パンと威勢よく張り飛ばす迫力に圧倒されつつも、ああ、こうした乱暴狼藉というか、語りに過剰なアクセントをつける方法は、そもそも落語では見かけません。打楽器のスティック感覚で打ち鳴らす張り扇は、落語ではきゃしゃな扇子に持ち替えていますから、せいぜいキセルか、お箸か、あるいは「あ、こんばんは、ごめんください」と挨拶を交わす際の、トントンと木戸を叩く効果音がわりに使うくらいで、リズム楽器として使うなんてことはハナから禁じ手でしょうね。そんないろいろな差異をチェックするという、ヘンな感心をしながら、二つ目さんが終わり、宝井琴梅さん登場。うまいです。入り方もスムーズで、張り扇も控えめ。この控えめな張り扇は、どこか上方落語の拍子木を思わせて、そうか、講談というのは声を張り上げ、絶叫するだけの芸ではないのだという基本を理解できただけでもかなりの収穫でした。琴梅さんの語りを聞いていて、上質な人情噺に心ほぐされてきたような、うっとりする数瞬でした。語りの内容は四谷怪談なんですよ。時節柄ぴったり。でも無理な恐怖感を押し付けない、気持ちの良い怪談噺でした。ああ、うまいなあ。久しぶりに話芸の醍醐味を味わえました。琴梅さんで中入りが終わり、しばしの休憩ののちに登場した、うなじ自慢の琴調さんもうまかったなあ。本来なら今宵のトリは琴調さんなんでしょうね。ただし、今宵はちょっと変則。今夜のトリの演目は内藤いづみ先生の一代記。緩和ケアの世界ではこの内藤先生の活動を注視していれば、すすむべき日本のターミナルケアの現状と未来が見えてくる、そのような、最前線を行く医者さまなのです。その内藤先生の生い立ちからいまに至る歴史を、わずか30分ほどにまとめた「内藤先生一代記」、いわば新作の発表会。講談師の田辺鶴瑛さんが語るのです。トリの条件は十分なのです。それに、今宵のお客さんの大半が内藤先生のファンで、いままでは内藤先生ご本人の講演を聞いてきた方々ですが、講談というスタイルに翻訳された「内藤先生一代記」も聞いておかなくてはという面々で日本橋亭は超満員だったのです。
さて、「内藤先生一代記」ですが、聞き終わっての感想を一言。
張り扇が活躍しすぎかなと。会場は天井が低く、パパン、パン、パンが異様に響き渡ります。末期ガン患者さんとその痛みを緩和する内藤医師の人間ドラマが基本テーマの新作なんですから、人生最期の機微に寄り添って、じわじわ、涙したかったはずなんです。せっかく新しい語りのテーマを鶴瑛さんご自身が探し当てたのですから、見台を激しく叩かずに語り終える、これからの新しい講談スタイルの一つかなと、そんなことを考えていました。
でも、知りませんでした。講談が琴梅さんや琴調さんなど、腰の据わった名人たちに支えられていたなんて。ちょっとだけ講談ファンになってみようかな。]]>
伝燈寺報告
http://awasaya.exblog.jp/17785173/
2012-07-21T22:00:00+09:00
2015-04-03T21:04:57+09:00
2012-07-21T22:00:10+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
江華島の古刹伝燈寺
↑伝燈寺の犬
ボク、予てより韓国に魅せられていました。はじめて韓国に行ったのがオリンピック開催決定に沸く年でした。それから毎冬2回、凍てつくソウルを訪ね、オリンピックを秋に迎える年の春も、工事現場のような喧騒に包まれるソウル市内を、「ハングル酔い」でふらふら歩き回っていたものです。振り返るともう25年にもなるんですね。そして25年を経過して、昨年暮、家族で訪ねたのですが、ソウルは思いっきり変貌していました。まるっきり東京でした。とってもオシャレな街に変貌していました。
ところで、「ハングル酔い」というのは、千鳥足で酩酊する状態を言います。飲酒していないにもかかわらず、ふらつく足元、眩暈、脳溢血の前兆のような名状しがたい浮遊感とお考えいただければいいでしょうか。周囲を闊歩する人たちは顔つき、体つきなど、東京銀座を歩いているときと同じなのですが、交わされている言葉と電光掲示板や看板などの文字だけが全く不明。一種、夢の世界にいるような、もどかしさ。混乱した酩酊。この奇妙な浮遊を「ハングル酔い」というのです。名著『ソウルの練習問題』の著者・関川夏央先生の造語なのです。ハングルは母音と子音を組み合わせて構成するローマ字のような文字列なので、慣れてくるとカタカナを読むような感覚で、なんとか発音だけは出来るようになるのです。ところが、発音したその言葉の意味がまったく分からない。珍紛漢紛、夢遊状態としか言いようがない不安な常態なのです。発音が出来ても、意味がまったく分からない。25年前はそれでも日本語と同じ漢字、例えば「薬局」とか「食堂」とか「新聞」とかの文字を看板に掲げていたり、東亜日報などの新聞の見出しには「輸出立国」とか「緊縮財政」とかの文字を踊らせて、少しは気分的にも救われたものですが、ハングルを優先させて漢字を極力使用しないお達しでもあったのでしょうか、まったく意味が分からない文字列に、どこか漢字使用国民たる日本人を拒絶しているような、尖った意図を感じていました。この奇妙な心身の状態を関川先生は「ハングル酔い」とネーミングしたのです。まことに達見というほかありません。
かき分けかき分け南大門市場(ナンデムンシジャン)をさまよい、地下鉄(チハチョル)を乗り継いで安国駅(アングックヨク)で地上に出て、景福宮(キョンボックン)に入ると、そこだけは閑雅な李朝時代の雰囲気が漂っていて、ゆったりとした間隔で伝統的な瓦葺きの建物が並んでいる。北を見ると峨々たる北岳山。日本で言うと3000メートル級の山頂部分の山塊をカットして据え直したように控えている。当時は超高層ビルはほとんどなく、南山タワーだけがこの李朝の王宮から見える現代で、ああ、空間としては李朝時代だけど、基本的には現在ただいまのソウルなのだと錯角を戒めているように佇立しているようでした。京都の社寺の庭から見え隠れする京都タワーにも、風景として似たような構図でもありました。
この李氏朝鮮の前の王朝・高麗時代、日本では元寇として記憶されている蒙古軍の侵略を鎌倉武士たちが必死に防戦し、刀折れ、矢尽き、絶望的な戦局を迎えたその時、幸運にも暴風により蒙古軍は退散。しかも、二度に亙っての日本侵略が二度とも暴風により阻害されたことを、朝廷、社寺をはじめとする非戦闘グループの公家と宗教家は「神風」と強弁。このあたりは海音寺潮五郎先生の『蒙古来襲』に詳しいのでご再読ください。この蒙古軍に加担せざるを得なかった高麗の苦悩を描いた井上靖先生の『風濤』もまた、ボクの韓国好きの始まりだったかもしれません。
ボクの手元にある『風濤』は昭和38年11月発行の講談社刊で、柿渋色のざっくりとした布製の角背四六判で、何遍読み返したことか。好きな本でした。
その『風濤』は、こんなふうに始まるのです。少し長いですが、冒頭の段落二つ分を紹介します。
高麗の太子倎が蒙古に入朝するために降表を捧げて江華島を出たのは、西暦一二五九年四月二十一日であった。本来なら倎の父である高麗王高宗が入朝すべきであり、蒙古からもそれを厳しく求められていたが、高宗は時に六十八歳、老衰と多年に亙る蒙古軍との抗争に依る心労のために、その容態は明日も判らぬ気遣わしい状態にあった。ために父王に替って太子倎の入朝となったのである。
倎は参知政事李世材、枢密院副使金寶鼎等四十餘名の従者を随え、早暁内城の北門を出ると、小丘陵の間を縫っている泥濘の道を進むこと一里半、島の北端山里浦へ出て、そこから漢江の河口に浮かんだ。江華島と本土の間の水域は、この邊りが最も廣く、漢江の流れと潮がぶつかり合って、遥かに霞んで見える對岸との間を青黒い波濤が埋めている。これに反して島の東海岸は本土と全く一衣帯水、指呼の間にあった。蒙古軍は毎年開京附近に侵寇して来ると、最も水域の狭くなる地点にある文珠山に登り、江を隔てて、江華島を俯瞰し、盛んに旗幟を張ったものである。
落ち着いた、この静かな書き出しが好きでした。蒙古軍に本土を蹂躙され、江華島(カンファド)に遷都した高麗王朝が天然の要害とたのんだ一衣帯水の海峡とは、実際にはどんな地勢を流れる海峡なのだろうか。日本でいうと九州と本州を二分する関門海峡のような激しい潮流が渦を巻き、漢江の河口で海水と激しく激突を繰り返す恐ろしげな水域に違いなく、海に弱い蒙古軍を怖じ気づかせて寄せ付けぬその海峡の沖に、霞むように浮かぶ絶海の孤島に違いないと、空想していました。
たびたび韓国を訪れていたにもかかわらず、時間がないまま、訪ねることはありませんでした。ただし、いつかはこの島を眼前にする文珠山の頂から、江華島を眼中にしたいと切望していました。さらに交通の事情が許せば島に渡り、敵国調伏の祈りを上げた古刹伝燈寺(チョンドゥンサ)を訪ねてみたいと、ずっと思いを潜ませていたのです。
その機会が意外に早く巡ってきました。
飯島さんが所属する千葉アグリコルツーラの韓国農業視察計画があり、お誘いを受けたのです。その自由時間をいただき、視察団とは別行動で江華島を訪ねたのです。
地下鉄2号線の新村駅(シンチョンヨク)で地上に出て、現代デパート近くのバス停から江華島行きのバスが出ていることは調べ済みでした。バスの所要は約2時間。昨年韓国に行った折り、地下鉄やバス利用が出来るスイカのような交通カードを購入し、便利に利用しましたので、今回もこのカードに新村駅で2万ウォン(約1700円)をチャージし、カタコトのハングルで、新聞や雑貨を売るミニ店舗で水や飴を買いつつ、「このバスは江華島に行きますか」の直訳、「イ ポス ヌン カンファド エ カヨ ?」と棒読みで問い掛け、その度にペラペラと聞き取り不能なほど早口の韓国語が返ってくる。多分もっとあっちだと言っているのでしょうが、よく分からない。でも、指先がきまって同じ方向を指しているので、その指さされたほうに歩き、事前に調べたバス停地図よりも500m以上も歩いたところの停留所で3000番のバスが出るバス停にたどり着きました。そのバス停で待つこと30分、3000番と書かれた赤い塗色のバスに乗り込こみ江華島へ出発です。
地図では本土と江華島とを結ぶ橋は、北に江華大橋(カンファテギョ)、南に江華草芝大橋(カンファチョジテギョ)の2本の橋が架かっていることが分かります。この3000番バスは島の北部にあるバスターミナルが終着ですので、江華大橋を渡って島に入ることになっていて、所要時間から割り出して新村を出て1時間30分くらい経過したあたりで海峡を渡りそうです。クーラーが効いていて、とても過ごしやすく、眠ってはいけないと思いつつも、ついウトウト。気がついたら、なんと江華大橋を渡っているところでした。
バスの車窓からは、幅の広い、ちょっと見の印象では利根川河口ほどの幅で、ただし、潮の流れの感じられない、川だったら上げ潮の潮流に勢い負けしそうな、おとなしい流れの海峡でした。太子倎も本土のこのあたりで本土に上陸したのかと思いながら、この程度の川幅と流量すら蒙古軍は怖れをなして竦んでいたのか、にわかには信じられない面持ちでした。そんなこんなを思っている余裕もないままに、あっという間に江華大橋を渡り、5分ほどでバスターミナルに到着。
予定では終点のバスターミナルを基点に、タクシーを利用して高麗宮、巨石文化のシンボルである江華支石墓(コインドル)を見学してから島の南にある伝燈寺へと移動するつもりにしていたのです。ところが、バスターミナル内にある観光案内所(クァンガンアンネソ)で伝燈寺の資料をいただこうと覗いたところ、とても親切な案内スタッフがいて、表情と言葉の柔らかさから類推すると「タクシーなんか使っちゃダメ、お金の無駄、無駄。9番に来るバスで行ったほうが安くて早い」と、その9番ランプの下のベンチに連れていかれちゃった。時刻表のコピーもくれて、すぐに入ってきたバスの運転手に、「この日本人が伝燈寺に行きたいと言っているから、間違いなく下ろしてやってくれ」と、きっとそんなことを大声で頼んでくれている。ああ、心優しき江華島の案内人。
高麗宮とコインドルを見学するチャンスを逃し、島の中央の脊梁部をおよそ15分ほど南下し、伝燈寺の東門に通じるバス停、伝燈寺に着きました。停車する前、運転手さんに指さされ、多分、「下りろ、伝燈寺だ」と言ったに違いありません。そうか、バスターミナルでこの客を下ろせって、観光案内所のスタッフに指さされていたことを思い出します。促されるままに下りましたが、周囲には誰もいません。観光シーズンならば多くの参詣者もいるでしょうが、生憎ボク一人。バス停の案内板は確かにハングルで「チョンドゥンサ」と書いてある。
一般的に、韓国の仏教寺院は森閑とした山の奥にあります。釜山にほど近い梵魚寺(ポモサ)、通度寺(トンドサ)、慶州の仏国寺(プルグクサ)、石窟庵(ソックラム)、伽倻山の麓にある海印寺(へインサ)と、ボクの韓国古寺巡りの記憶で言うと、どれも大変不便な山奥にあるのが韓国のお寺。江華島の伝燈寺も、やはり結構不便な場所にありました。この不便さが魅力でもある訳で、ソウル市内からバスを乗り継いで約3時間、伝燈寺はまさしく山の奥にありました。
バス停周辺をうろうろ。どうやら専用駐車場らしき案内板が目に入りましたが、その先に、なんとも嬉しいことに漢字で「伝燈寺」と大書した幟が翻っています。
ここが予て憧れていた伝燈寺か。雰囲気はいい。うっそうとした松に抱かれた深山。この山上に堂宇が建ち並んでいるのか。案内順路に従って松林の中の小道を登っていきます。車で境内に直接乗り入れられる道が眼下に見えます。5分も上ると券売所が左手に現れ、その先に石組みのアーチトンネルが姿を見せています。2000ウォンを支払い東門へ。自宅で下調べしたKONESTの韓国地図によると、この東門をくぐって右手に上って行くと三郎城へと至るようになっていますが、それらしい道標は見当たりません。
因みに三郎城とは韓民族起源の檀君の三人の息子が築いた城とのことで、伝燈寺はこの城内にある護国寺でした。外国からの侵攻があった際の国防祈願所で、日本でも元寇の際、奈良の東大寺をはじめとする大寺が敵国調伏の祈願所になったのとほぼ同じ役割を担っていたお寺です。
三郎城へ至る道標は見当たりませんでしたが、東門をくぐり、うっそうとした森の中の道をさらに上り続けると、左手に竹林茶園が、その奥に説法殿が木立に抱かれるようにして建っています。この説法殿はテンプルステイと言って、宿泊して参禅体験する方のための施設。一見高校生のように若い男女を多く見かけます。いままでほとんど人に出会わずに来たので、若く甲高く子音が尖った韓国語を聞くと、妙に気持ちも落ち着いてきます。ボクには彼らの声が意味不明ですから小鳥の声と等質に聞こえるのです。
境内の突き当たりに寂黙堂との扁額を上げた堂宇があり、ここでも参禅体験の若い人を見かけました。その寂黙堂からぐるりと時計回りに堂宇が並んでいて、どうやらここが伝燈寺の中心にあたるのか、山の奥にありながら、広やかに整地された広場になっていて、極楽庵、冥府殿、薬師殿、香爐殿、大雄寶殿、宗務所がこの広場を囲んでいます。広場を挟んで大雄寶殿の向かいに対潮楼と梵鐘楼が建っています。対潮楼の脇は大きな桜の木陰を利用する休憩所になっていて、ベンチが配され、訪れている信者たちが涼んでいます。開花期にはさぞや絶景お花見スポットになるでしょうね。梵鐘楼は韓国の大きなお寺に共通の大きな釣り鐘、大きな両面太鼓、ハラワタを刳り貫いて中空になった木製の魚鼓、鋳造製の大きな雲板が下げられていて、朝に夕に、墨染めの僧侶が一人で、まず梵鐘を撞き、ゆるーく張った大太鼓をまるで舞うように叩き、木魚のようなくぐもった木質音を響かせる魚鼓を叩き、金属音を発する雲板を叩き、読経開始の合図を一山全体に鳴り響かせるに違いありません。生憎なことに、ここにたどり着いたのが昼過ぎでしたので、今回は神聖な精神世界へと誘うサウンドを聴くことは出来ませんでした。まことに残念です。
ソウルに戻るバス時刻の都合で、もうそろそろ伝燈寺を引き上げなくてはいけません。境内をもう一回りしてから香爐殿脇を見ると、瓦が整然と積まれています。堂宇新築でも計画しているのか、それとも屋根瓦補修用に用意してあるのか。近寄ってみると、堂宇新築のための基金調達として瓦1枚1万ウォンで寄進出来ると書いてあります。係のおばさんに挨拶をして、1枚寄進してきました。瓦の裏に白マジックで住所と氏名を記入しなさいと言っているみたいです。おまけに昼ご飯を食べていけと言っているようです。ああ、もっと韓国語を勉強しなくてはと、このときもまた強く思ったのでした。奉納者の例に倣って記入してきました。名前だけはハングルと日本語のダブル表記をし、一礼してのち伝統的な建築の南門をくぐり、松林を抜けて下山しました。
もっともっと韓国語を学んで、深山の古寺をめぐる旅に来ることにしましょう。合掌。
↑3000番のバス停。
↑伝燈寺の案内幟。嬉しかったですね、漢字が読める人で。
↑参道の休憩所と奥が東門。
↑伝燈寺の料金所。
↑伝燈寺の東門
↑伝燈寺の境内案内板。
↑伝燈寺の竹林茶園。鶴が門扉の代わりに。
↑伝燈寺の最奥にある寂黙堂。
↑伝燈寺の冥府殿(左)と薬師殿。
↑伝燈寺の梵鐘楼。右から大太鼓、梵鐘、魚鼓。雲板はこの位置からは梵鐘の影になって見えない。
↑七夕の飾りの提灯と大雄寶殿。
↑伝燈寺の香爐殿と寄進用の屋根瓦。
↑伝燈寺の金堂でもある大雄寶殿。ここで食事の接待もしていました。
↑伝燈寺の境内を流れる小川にかかる石橋の狛犬。
↑伝燈寺の南門。三郎城の城門でもあるらしい。]]>
上海に扁額を求めて
http://awasaya.exblog.jp/7419779/
2008-02-06T08:47:19+09:00
2008-02-06T08:47:19+09:00
2008-02-06T08:47:19+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
このお正月、上海から蘇州、杭州と廻ってきました。庭園やお寺巡りです。その都度気に入った扁額があると、「ああ、さすがに書の国だなあ。右肩上がりの毛沢東書体ばかりじゃなく、ちゃんとした書体がたくさんあるなあ」と、デジカメでパシャパシャと撮ってきたのです。
ですが、なにせスナップ用のカメラで、しかもなかなか扁額の真下や正面など、撮影条件のいい場所に居座るわけにもいかず、大半の画像はほとんどが歪んでいます。
撮ってきた画像を見直しながら、ま、しかたがないか、旅行先で気軽に撮ってきた写真なんだからと諦めていたら、つい先日、アドビのホームページで画像の歪みを解消する方法を見つけたのです。それは、建物の右の壁にあったガラス窓をコピーして、建物左のモルタル壁に、パースを変えてガラス窓をはめ込むというスーパーテクニック紹介のページでした。
ああ、そうか、歪んでいるとはいえ、もともとの扁額は基本的には四角形です。それを見る位置が斜めだったりするので、撮った写真が歪んでしまうので、歪んでいる画像の天地左右が平行になるように戻せば、真正面から撮った扁額に戻ることになるのかな。
そこで、フォトショップでさっそくやってみましたら、案外簡単に歪みがとれて、ほぼ正面で見ているような写真になったというわけです。
これからも、ピントさえシャープに撮れていれば、撮影後に調整できるってことが分かって、いままで撮りだめた写真も、追々に修正していこうと考えています。
例えば、今回撮ってきた写真でいうと、烏鎮という民俗村に行ったおり、そこのお茶屋さんの一室に掛かっていた「香山堂」という扁額ですが、これを扁額の外あたりで切り抜いてから、ガイドラインを引き、扁額の四辺がこのガイドラインと平行になるように引っ張ったり縮めたりして、真正面から見るような扁額に修正できたわけです。
↑修正前の香山堂の扁額。撮影時点でモニターのガイドラインを気にしながらシャッターを切るのはちょっと無理。とにかくピントがシャープで、ぶれないように撮ることだけを気をつける。
↑歪みを調整した香山堂の扁額
蘇州郊外にあり、東洋のピサの斜塔といわれているらしい虎丘禅寺境内にあった石碑の覆い屋根に掛かっていた扁額も端正な筆づかいで、ああ、いい字だなあとほれぼれ。
↑修正前の御碑亭の扁額
↑修正を済ませた御碑亭の扁額
杭州の八角十三重塔の六和塔には、最上階まで登ってきましたが、各層に律儀に扁額が掛かっていて、5階と7階の扁額がいい感じでしたので、さっそく歪みを整えてみました。
↑十三重塔の六和塔
五雲扶盖
七寶荘厳 ]]>
飛騨市の「きつね火まつり」報告
http://awasaya.exblog.jp/3463449/
2006-09-26T15:00:00+09:00
2006-10-11T11:02:01+09:00
2006-10-02T17:24:41+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
↑白壁が続く瀬戸川沿いをすすむ「きつねの嫁入り」行列。花嫁さんは一般公募で、とてもかわいらしい飛騨古川の方でした。
幻想的な飛騨古川の「きつね火まつり」
先週末の9/23-25と、岐阜県飛騨市に行ってきました。平成16年2月の市町村合併で古川町、河合村、宮川村、神岡町が合併して飛騨市となった新しい市です。今年で12回目になる『きつね火まつり』取材のため。
秋ともなると朝霧が立ち籠める飛騨古川の町は、すぐ南に位置する飛騨高山のくらべれば規模も小さな昔町ですが、小さいだけに趣きも凝縮されているようで、旅慣れた方のリピーターが多いようでした。祭りは宮川支流の荒城川から引いた疎水・瀬戸川沿い一帯を会場とする規模の、市をあげての大きな祭りです。
きつね火を思わせる篝火が瀬戸川沿いに灯ると、きつね火まつりはいよいよスタートです。夕闇が迫る17時半、三寺まいりで知られる円光寺、本光寺、真宗寺をスタートし、飛騨古川まつり会館前の広場に集合。そこから瀬戸川沿いを静々と歩き、メイン会場の増島城跡公園グラウンドへと向かいます。瀬戸川沿いに灯る灯りの中、きつねの嫁入り行列が厳かに通っていく。
実に幻想的な気配で、観光客を魅了していました。
夢か現か。秋の夜長の幻想的な不思議世界は、きつねの花嫁・花婿募集から式次第、会場手配から運営まで町の商工会青年部がすべて仕切っている若やいだ祭りで、昼前からきつねのメークをほどこした若者があちこちに。
カメラマンの素敵な写真は来年用にとっておくとして、シロートデジカメ写真でまずは気分だけでも味わってみてください。]]>
HAWAIIのKAUHI
http://awasaya.exblog.jp/3104244/
2006-08-18T12:19:00+09:00
2006-10-11T11:02:29+09:00
2006-08-18T12:32:59+09:00
2006awasaya
行ってきました報告
↑Jesseの横顔写真。斜め右上方向、雲が切れて明るくなっている山の端のあたりにKAUHIが見えますか。
ハワイのいい男
お盆休暇を利用して、Hawaiiに行ってきました。蒸し暑い夜10時、厳しい出国チェックを済ませ成田を出発。現地時間朝8時に目を覚ましたら、快晴のさわやかなHONOLULU。田舎のバスのような双発のプロペラ機に乗り継いでMAUIへ。ここで2泊し、ふたたびHONOLULUで2泊というあわただしい日程の中、最終日の午前中、トロピカルツアーに参加。これがじつに優れものでした。
案内をしてくれたJesse Smithさん。27歳の好青年。熊本で3年間、英語教師として赴任。その間、南は沖縄、屋久島、種子島、広島、京都、長野、東京渋谷、北海道と、標準的な日本人より日本国内を旅している日本通。現在はHAWAII大学のLOWスクールで勉強中。アルバイトでTV番組「LOST」に出ているとか。「木曜と金曜に放送されているから、見て!」って言ってた。
その好青年の案内で、マノアの滝へ向かうハイキングコースのスタート地点の公園でトイレ休憩をしていたら、山の端を指差しながら、Jesseが流暢な日本語で「あそこに人の顔が見える? 女神KAHALAOPUNAに害をなした男の神KAUHIが岩に変えられ、罪が許されるのを待っている」。そんなことを説明してくれたが、指差すほうを凝視してもよく判らない。しばらくすると雲が動いて、山の端がより鮮やかに見え始めた。すると、「ほら、あそこの出っ張りがオデコ、マツゲがあって、くぼんだ目、とがった鼻、唇にアゴ、見えますか」と言ってから、顔を仰向けにして「どうどう、判った?」。おお、まさしくJesseのとがった鼻、長いマツゲ! 小学6年生の息子も判ったらしく、大喜び。
神話と地名の由来を説明してくれて、ショッピングとはまた違ったHAWAIIの楽しみを教えてくれました。ホテルに戻り、Book storeに駆け込み、HAWAIIの地名辞典か神話の本を探したけど、あいにく見つからない。写真集の脇にAlbert J. Schutz著「ハワイ語のすべて」というIALAND HERITAGE Publishingの本を購入。帰りの飛行機の中で読んでいたが、ああ、行きの飛行機の中で読んでおけばよかったと、後悔後悔。(haseagwa)
↑KAUHIの部分拡大写真。日本だったら釈迦の涅槃像とか阿蘇山の五岳というように表現されることだろう。判りにくかったらご連絡をください。いま、気がついたのですが、鼻のあたりから鼻毛も見える!]]>
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