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【真剣!野良仕事】[190=スイカ・メロン プロジェクト6]

2012.7.31(火)
今夏も岩手にスイカ、送りました
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↑7月28日。この日、収穫したスイカは10個、メロンも10個。「さて、先にスイカを二つ入れ、空きスペースにインゲンやキャベツ、オクラなどの野菜を小分けして入れていきましょう」とTさん。左の列は陸前高田行き、右の列が大船渡行き。内容をチェックして、ほぼ均等な野菜が入っていることを確認し、クッションがわりにワラを詰め、ネクタイも入れ、豆本も入れ、竹製ロング靴べらはボックスに入らなかったので別送。
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↑梱包を済ませ、宛先を記入して近くの宅急便扱い所へ。今夏はこれが第1便で、第2便はお米収穫後の10月を予定しています。

 4月28日(土)に大玉スイカ20株、プリンスメロン13株、ネットメロン3株、それに鳥害を受けにくいと言われている黒玉スイカ5株を定植し、今年のHSPはスタート。この件はすでに報告済みですが、先々週あたりからスイカ、メロンがようやく収穫時期に入り、Tさんと飯島さんの打ち合わせで、7月28日(土)に飯島農園としての被災地支援野菜第一弾とすることが決まりました。届け先は昨年同様、岩手県陸前高田市、大船渡市です。
 送り届ける品目はスイカ、メロン、インゲン、カボチャ、ナス、白ナス、キャベツ、オクラ、トウモロコシ。野菜以外ではラベンダーのサシェ、竹とんぼ、竹製ロング靴べら、豆本など。
 梱包作業をしながら、そう言えば昨年10月16日、遠野のボランティアセンターを経由して、陸前高田の気仙町長部地区に高校生の息子を連れてボランティアに行ったことを思い出していました。陸前高田の松原には塩っ辛い思い出があるのです。学生時代にあの美しい渚に寝そべり、蒼い海と背後の松原を眺め、感傷に浸かっていて、あやうく大波にもっていかれそうになり、しこたま海水を飲まされたことがあり、美しかった松原のことなど湧いて出る思い出を、ボランティアセンターの送迎バスの、陸前高田へ向かう行きの車中で、息子に話して聞かせましたが、聞いているのか無視しているのか、反応がありません。息子は魚のようにじっと目を開けて圧倒的な被災風景を見ているだけでした。ただただ無言で見入っていました。その呆けたような息子の顔を見られただけでも、連れてきてよかったと思ったものです。
 道路といわず、畑といわず、あたり一面に飛散したガラスの破片、金属片、木片などの瓦礫を拾い集め、分別する作業を終え、夕方前に作業を切り上げ、再び送迎のバスに乗り、遠野に向けて移動。途中、松原のあったあたりにたち尽くす「奇跡の一本松」を眺め、陸前高田をあとにしました。はじめてのボランティアで気疲れしたのでしょうか、帰途の車中では車窓から外を見るでもなく、息子は俯いているだけでしたが、トイレ休憩で立ち寄った道の駅に、気仙川の流れに添うように咲く桜並木と緑なす松原のワイドな写真が掲示されていて、その写真の前に立ちすくむよう見入っていました。どのように話して聞かせても、かつての陸前高田の美しい風景を伝えることはほぼ不可能ですが、優れた写真はそうした危惧をあっさりと覆すだけの力があるのですね。
 私事で恐縮ですが、そうしたさまざまを思い出しつつ、6個の荷物を檜山さんと一緒に軽トラに積み、宅急便扱い所へと運び、第一弾を終了しました。
 いろいろな野菜を提供していただいた飯島農園のみなさま、ありがとうございました。炎天下、梱包をお手伝いいただいたみなさま、ありがとうございました。
by 2006awasaya | 2012-07-31 13:07 | 真剣!野良仕事

【真剣!野良仕事】[189=正しく「大」の字で寝るということ]

2012.7.27(金)
時を超えてなんとも楽しい「青田」の午睡
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↑先日、田んぼの水管理に出た折、農道で身を横たえてみたんです。想像以上に気持ちがソフトになりました。轍がへこみ、軌間中央部が程よく盛り上がり、しかも雑草がマット状になっているので背中に柔らかく、思わず知れず深い眠りへと落ちてしまいました。世間では損得なく、自失したように身を横たえる状態を例えて「大の字になって」といいますが、うーん、まさしく「大」の字そのもの。それにしても、この大の字、股関節が硬い体形の標本のようでもあります。白川静先生の『字統』で「大」の字を引くと、「人の正面形に象る」とあり、「広大、長大、多大など、すべて盛大の義に用いる」と。自失した姿ではなく、盛大なる寝姿と言い換えたほうがいいかも。ところで、この「大」の項にこの写真とほぼ相似形の甲骨金文が掲載されています。明朝体でもゴシック体でも、「大」の字はもっと足が開いていますが、『字統』では肩幅の倍幅くらいにしか両足を開いていない「大」の字となっていました。

 7月24日、この日は飽水管理の目的で午前から午後にかけて、我が田んぼに我田引水をしていました。出穂する直前のこの時期、田んぼの主は水が欲しくて欲しくて、あらゆる知恵と経験を総動員して「我が田んぼに水を引き入れ」ようと、争いも辞さずの覚悟を呑み、自分の畔を見回りし、徘徊するのです。出穂の時期は田んぼ田んぼによって異なるので、満水にしたい田んぼには強引に水を入れ、分蘖を促進したい田んぼには水を断ちと、イネの成育具合にあわせて水加減をしているのです。わが方の田んぼはちょうど分蘖と出穂の中間地点で、この時期の水管理を飽水管理と呼ぶのです。蛇足ですが、飽水管理とは何か。田んぼのあちこちに見かける足跡の窪みに水がひたひたに溜まる程度に水を溜めること。中途半端な、なかなか気難しい水管理なのです。
 ところで、用水路からの水では足りませんので、近くの川からエンジンポンプで汲み上げて田んぼに引水していますが、結構時間がかかるのです。その間、畦の草を刈ったり、田んぼに姿を現し始めたヒエなどの雑草を取り除いたりしていると、サヤサヤとした水の音が耳に入ります。畔に腰を下ろし、耳を澄ますと、鮮やかに聞こえてきます。もっともっと聞いていたくなって、農道に大の字になってこのひそやかな水の音を聞いていましたら、いつしか眠りに落ちて。想定以上に気持ちがいいものでした。確か芭蕉はこの水の音を句にしていたなあと、自宅に戻ってから、加藤楸邨先生の『芭蕉全句』をパラパラしていたら、ありました。

楽しさや青田に涼む水の音

「青田のほとりで涼んでいると、折から水を引いて田の中へ送り込むための、爽やかな水の音が絶えないので、聞いているとおのずとたのしい気持ちになる」と加藤先生は説明しています。時を超えて、青田は爽やかさの源泉なのだなあと実感した次第です。
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↑大の字の写真は風戸さんに撮ってもらいました。
by 2006awasaya | 2012-07-27 20:58 | 真剣!野良仕事

伝燈寺報告

2012.7.21(土)
江華島の古刹伝燈寺
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↑伝燈寺の犬

 ボク、予てより韓国に魅せられていました。はじめて韓国に行ったのがオリンピック開催決定に沸く年でした。それから毎冬2回、凍てつくソウルを訪ね、オリンピックを秋に迎える年の春も、工事現場のような喧騒に包まれるソウル市内を、「ハングル酔い」でふらふら歩き回っていたものです。振り返るともう25年にもなるんですね。そして25年を経過して、昨年暮、家族で訪ねたのですが、ソウルは思いっきり変貌していました。まるっきり東京でした。とってもオシャレな街に変貌していました。

 ところで、「ハングル酔い」というのは、千鳥足で酩酊する状態を言います。飲酒していないにもかかわらず、ふらつく足元、眩暈、脳溢血の前兆のような名状しがたい浮遊感とお考えいただければいいでしょうか。周囲を闊歩する人たちは顔つき、体つきなど、東京銀座を歩いているときと同じなのですが、交わされている言葉と電光掲示板や看板などの文字だけが全く不明。一種、夢の世界にいるような、もどかしさ。混乱した酩酊。この奇妙な浮遊を「ハングル酔い」というのです。名著『ソウルの練習問題』の著者・関川夏央先生の造語なのです。ハングルは母音と子音を組み合わせて構成するローマ字のような文字列なので、慣れてくるとカタカナを読むような感覚で、なんとか発音だけは出来るようになるのです。ところが、発音したその言葉の意味がまったく分からない。珍紛漢紛、夢遊状態としか言いようがない不安な常態なのです。発音が出来ても、意味がまったく分からない。25年前はそれでも日本語と同じ漢字、例えば「薬局」とか「食堂」とか「新聞」とかの文字を看板に掲げていたり、東亜日報などの新聞の見出しには「輸出立国」とか「緊縮財政」とかの文字を踊らせて、少しは気分的にも救われたものですが、ハングルを優先させて漢字を極力使用しないお達しでもあったのでしょうか、まったく意味が分からない文字列に、どこか漢字使用国民たる日本人を拒絶しているような、尖った意図を感じていました。この奇妙な心身の状態を関川先生は「ハングル酔い」とネーミングしたのです。まことに達見というほかありません。

 かき分けかき分け南大門市場(ナンデムンシジャン)をさまよい、地下鉄(チハチョル)を乗り継いで安国駅(アングックヨク)で地上に出て、景福宮(キョンボックン)に入ると、そこだけは閑雅な李朝時代の雰囲気が漂っていて、ゆったりとした間隔で伝統的な瓦葺きの建物が並んでいる。北を見ると峨々たる北岳山。日本で言うと3000メートル級の山頂部分の山塊をカットして据え直したように控えている。当時は超高層ビルはほとんどなく、南山タワーだけがこの李朝の王宮から見える現代で、ああ、空間としては李朝時代だけど、基本的には現在ただいまのソウルなのだと錯角を戒めているように佇立しているようでした。京都の社寺の庭から見え隠れする京都タワーにも、風景として似たような構図でもありました。
 この李氏朝鮮の前の王朝・高麗時代、日本では元寇として記憶されている蒙古軍の侵略を鎌倉武士たちが必死に防戦し、刀折れ、矢尽き、絶望的な戦局を迎えたその時、幸運にも暴風により蒙古軍は退散。しかも、二度に亙っての日本侵略が二度とも暴風により阻害されたことを、朝廷、社寺をはじめとする非戦闘グループの公家と宗教家は「神風」と強弁。このあたりは海音寺潮五郎先生の『蒙古来襲』に詳しいのでご再読ください。この蒙古軍に加担せざるを得なかった高麗の苦悩を描いた井上靖先生の『風濤』もまた、ボクの韓国好きの始まりだったかもしれません。
 ボクの手元にある『風濤』は昭和38年11月発行の講談社刊で、柿渋色のざっくりとした布製の角背四六判で、何遍読み返したことか。好きな本でした。

 その『風濤』は、こんなふうに始まるのです。少し長いですが、冒頭の段落二つ分を紹介します。

 高麗の太子倎が蒙古に入朝するために降表を捧げて江華島を出たのは、西暦一二五九年四月二十一日であった。本来なら倎の父である高麗王高宗が入朝すべきであり、蒙古からもそれを厳しく求められていたが、高宗は時に六十八歳、老衰と多年に亙る蒙古軍との抗争に依る心労のために、その容態は明日も判らぬ気遣わしい状態にあった。ために父王に替って太子倎の入朝となったのである。
 倎は参知政事李世材、枢密院副使金寶鼎等四十餘名の従者を随え、早暁内城の北門を出ると、小丘陵の間を縫っている泥濘の道を進むこと一里半、島の北端山里浦へ出て、そこから漢江の河口に浮かんだ。江華島と本土の間の水域は、この邊りが最も廣く、漢江の流れと潮がぶつかり合って、遥かに霞んで見える對岸との間を青黒い波濤が埋めている。これに反して島の東海岸は本土と全く一衣帯水、指呼の間にあった。蒙古軍は毎年開京附近に侵寇して来ると、最も水域の狭くなる地点にある文珠山に登り、江を隔てて、江華島を俯瞰し、盛んに旗幟を張ったものである。


 落ち着いた、この静かな書き出しが好きでした。蒙古軍に本土を蹂躙され、江華島(カンファド)に遷都した高麗王朝が天然の要害とたのんだ一衣帯水の海峡とは、実際にはどんな地勢を流れる海峡なのだろうか。日本でいうと九州と本州を二分する関門海峡のような激しい潮流が渦を巻き、漢江の河口で海水と激しく激突を繰り返す恐ろしげな水域に違いなく、海に弱い蒙古軍を怖じ気づかせて寄せ付けぬその海峡の沖に、霞むように浮かぶ絶海の孤島に違いないと、空想していました。
 たびたび韓国を訪れていたにもかかわらず、時間がないまま、訪ねることはありませんでした。ただし、いつかはこの島を眼前にする文珠山の頂から、江華島を眼中にしたいと切望していました。さらに交通の事情が許せば島に渡り、敵国調伏の祈りを上げた古刹伝燈寺(チョンドゥンサ)を訪ねてみたいと、ずっと思いを潜ませていたのです。

 その機会が意外に早く巡ってきました。

 飯島さんが所属する千葉アグリコルツーラの韓国農業視察計画があり、お誘いを受けたのです。その自由時間をいただき、視察団とは別行動で江華島を訪ねたのです。
 地下鉄2号線の新村駅(シンチョンヨク)で地上に出て、現代デパート近くのバス停から江華島行きのバスが出ていることは調べ済みでした。バスの所要は約2時間。昨年韓国に行った折り、地下鉄やバス利用が出来るスイカのような交通カードを購入し、便利に利用しましたので、今回もこのカードに新村駅で2万ウォン(約1700円)をチャージし、カタコトのハングルで、新聞や雑貨を売るミニ店舗で水や飴を買いつつ、「このバスは江華島に行きますか」の直訳、「イ ポス ヌン カンファド エ カヨ ?」と棒読みで問い掛け、その度にペラペラと聞き取り不能なほど早口の韓国語が返ってくる。多分もっとあっちだと言っているのでしょうが、よく分からない。でも、指先がきまって同じ方向を指しているので、その指さされたほうに歩き、事前に調べたバス停地図よりも500m以上も歩いたところの停留所で3000番のバスが出るバス停にたどり着きました。そのバス停で待つこと30分、3000番と書かれた赤い塗色のバスに乗り込こみ江華島へ出発です。

 地図では本土と江華島とを結ぶ橋は、北に江華大橋(カンファテギョ)、南に江華草芝大橋(カンファチョジテギョ)の2本の橋が架かっていることが分かります。この3000番バスは島の北部にあるバスターミナルが終着ですので、江華大橋を渡って島に入ることになっていて、所要時間から割り出して新村を出て1時間30分くらい経過したあたりで海峡を渡りそうです。クーラーが効いていて、とても過ごしやすく、眠ってはいけないと思いつつも、ついウトウト。気がついたら、なんと江華大橋を渡っているところでした。
 バスの車窓からは、幅の広い、ちょっと見の印象では利根川河口ほどの幅で、ただし、潮の流れの感じられない、川だったら上げ潮の潮流に勢い負けしそうな、おとなしい流れの海峡でした。太子倎も本土のこのあたりで本土に上陸したのかと思いながら、この程度の川幅と流量すら蒙古軍は怖れをなして竦んでいたのか、にわかには信じられない面持ちでした。そんなこんなを思っている余裕もないままに、あっという間に江華大橋を渡り、5分ほどでバスターミナルに到着。

 予定では終点のバスターミナルを基点に、タクシーを利用して高麗宮、巨石文化のシンボルである江華支石墓(コインドル)を見学してから島の南にある伝燈寺へと移動するつもりにしていたのです。ところが、バスターミナル内にある観光案内所(クァンガンアンネソ)で伝燈寺の資料をいただこうと覗いたところ、とても親切な案内スタッフがいて、表情と言葉の柔らかさから類推すると「タクシーなんか使っちゃダメ、お金の無駄、無駄。9番に来るバスで行ったほうが安くて早い」と、その9番ランプの下のベンチに連れていかれちゃった。時刻表のコピーもくれて、すぐに入ってきたバスの運転手に、「この日本人が伝燈寺に行きたいと言っているから、間違いなく下ろしてやってくれ」と、きっとそんなことを大声で頼んでくれている。ああ、心優しき江華島の案内人。
 高麗宮とコインドルを見学するチャンスを逃し、島の中央の脊梁部をおよそ15分ほど南下し、伝燈寺の東門に通じるバス停、伝燈寺に着きました。停車する前、運転手さんに指さされ、多分、「下りろ、伝燈寺だ」と言ったに違いありません。そうか、バスターミナルでこの客を下ろせって、観光案内所のスタッフに指さされていたことを思い出します。促されるままに下りましたが、周囲には誰もいません。観光シーズンならば多くの参詣者もいるでしょうが、生憎ボク一人。バス停の案内板は確かにハングルで「チョンドゥンサ」と書いてある。

 一般的に、韓国の仏教寺院は森閑とした山の奥にあります。釜山にほど近い梵魚寺(ポモサ)、通度寺(トンドサ)、慶州の仏国寺(プルグクサ)、石窟庵(ソックラム)、伽倻山の麓にある海印寺(へインサ)と、ボクの韓国古寺巡りの記憶で言うと、どれも大変不便な山奥にあるのが韓国のお寺。江華島の伝燈寺も、やはり結構不便な場所にありました。この不便さが魅力でもある訳で、ソウル市内からバスを乗り継いで約3時間、伝燈寺はまさしく山の奥にありました。

 バス停周辺をうろうろ。どうやら専用駐車場らしき案内板が目に入りましたが、その先に、なんとも嬉しいことに漢字で「伝燈寺」と大書した幟が翻っています。
 ここが予て憧れていた伝燈寺か。雰囲気はいい。うっそうとした松に抱かれた深山。この山上に堂宇が建ち並んでいるのか。案内順路に従って松林の中の小道を登っていきます。車で境内に直接乗り入れられる道が眼下に見えます。5分も上ると券売所が左手に現れ、その先に石組みのアーチトンネルが姿を見せています。2000ウォンを支払い東門へ。自宅で下調べしたKONESTの韓国地図によると、この東門をくぐって右手に上って行くと三郎城へと至るようになっていますが、それらしい道標は見当たりません。
 因みに三郎城とは韓民族起源の檀君の三人の息子が築いた城とのことで、伝燈寺はこの城内にある護国寺でした。外国からの侵攻があった際の国防祈願所で、日本でも元寇の際、奈良の東大寺をはじめとする大寺が敵国調伏の祈願所になったのとほぼ同じ役割を担っていたお寺です。

 三郎城へ至る道標は見当たりませんでしたが、東門をくぐり、うっそうとした森の中の道をさらに上り続けると、左手に竹林茶園が、その奥に説法殿が木立に抱かれるようにして建っています。この説法殿はテンプルステイと言って、宿泊して参禅体験する方のための施設。一見高校生のように若い男女を多く見かけます。いままでほとんど人に出会わずに来たので、若く甲高く子音が尖った韓国語を聞くと、妙に気持ちも落ち着いてきます。ボクには彼らの声が意味不明ですから小鳥の声と等質に聞こえるのです。

 境内の突き当たりに寂黙堂との扁額を上げた堂宇があり、ここでも参禅体験の若い人を見かけました。その寂黙堂からぐるりと時計回りに堂宇が並んでいて、どうやらここが伝燈寺の中心にあたるのか、山の奥にありながら、広やかに整地された広場になっていて、極楽庵、冥府殿、薬師殿、香爐殿、大雄寶殿、宗務所がこの広場を囲んでいます。広場を挟んで大雄寶殿の向かいに対潮楼と梵鐘楼が建っています。対潮楼の脇は大きな桜の木陰を利用する休憩所になっていて、ベンチが配され、訪れている信者たちが涼んでいます。開花期にはさぞや絶景お花見スポットになるでしょうね。梵鐘楼は韓国の大きなお寺に共通の大きな釣り鐘、大きな両面太鼓、ハラワタを刳り貫いて中空になった木製の魚鼓、鋳造製の大きな雲板が下げられていて、朝に夕に、墨染めの僧侶が一人で、まず梵鐘を撞き、ゆるーく張った大太鼓をまるで舞うように叩き、木魚のようなくぐもった木質音を響かせる魚鼓を叩き、金属音を発する雲板を叩き、読経開始の合図を一山全体に鳴り響かせるに違いありません。生憎なことに、ここにたどり着いたのが昼過ぎでしたので、今回は神聖な精神世界へと誘うサウンドを聴くことは出来ませんでした。まことに残念です。

 ソウルに戻るバス時刻の都合で、もうそろそろ伝燈寺を引き上げなくてはいけません。境内をもう一回りしてから香爐殿脇を見ると、瓦が整然と積まれています。堂宇新築でも計画しているのか、それとも屋根瓦補修用に用意してあるのか。近寄ってみると、堂宇新築のための基金調達として瓦1枚1万ウォンで寄進出来ると書いてあります。係のおばさんに挨拶をして、1枚寄進してきました。瓦の裏に白マジックで住所と氏名を記入しなさいと言っているみたいです。おまけに昼ご飯を食べていけと言っているようです。ああ、もっと韓国語を勉強しなくてはと、このときもまた強く思ったのでした。奉納者の例に倣って記入してきました。名前だけはハングルと日本語のダブル表記をし、一礼してのち伝統的な建築の南門をくぐり、松林を抜けて下山しました。
 もっともっと韓国語を学んで、深山の古寺をめぐる旅に来ることにしましょう。合掌。
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↑3000番のバス停。
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↑伝燈寺の案内幟。嬉しかったですね、漢字が読める人で。
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↑参道の休憩所と奥が東門。
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↑伝燈寺の料金所。
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↑伝燈寺の東門
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↑伝燈寺の境内案内板。
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↑伝燈寺の竹林茶園。鶴が門扉の代わりに。
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↑伝燈寺の最奥にある寂黙堂。
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↑伝燈寺の冥府殿(左)と薬師殿。
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↑伝燈寺の梵鐘楼。右から大太鼓、梵鐘、魚鼓。雲板はこの位置からは梵鐘の影になって見えない。
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↑七夕の飾りの提灯と大雄寶殿。
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↑伝燈寺の香爐殿と寄進用の屋根瓦。
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↑伝燈寺の金堂でもある大雄寶殿。ここで食事の接待もしていました。
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↑伝燈寺の境内を流れる小川にかかる石橋の狛犬。
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↑伝燈寺の南門。三郎城の城門でもあるらしい。
by 2006awasaya | 2012-07-21 22:00 | 行ってきました報告

【真剣!野良仕事】[188=好々亭に決定]

2012.7.17(火)
東屋の名称、『好々亭』に
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↑飯島農園の一角に竣工した竹製レストハウス『好々亭』とメンバー各位。正面に向かって右から尾上さん、東海林さん、小林さん、井上さん、飯島さん、加賀美さんご夫妻、鶴見さんご夫妻、阿部さん、山口さん。中央に杉の分厚な一枚板がテーブルとして置かれ、正面に唐破風に似た庇を施し、これにて完成。畑を渡り来る風が気持ちよく、こんな施設を所有するメンバーの、なんと誇らしげな顔!

 7月16日、この日は世間的には「海の日」でしたが、わが農園メンバーにとってはバーベキューパーティを兼ねた真夏の園遊会でした。
 さわやかな風が通り抜ける竹林にて肉や野菜をローストし、鶴見さんご夫妻が差し入れてくれたドイツビールをおいしくいただき、実に楽しい数刻でした。
 ところで、6月下旬から着工していたレストハウスの正面庇とテーブルも万端完成し、肝心の名称を皆で決めましたので、ご報告申し上げます。園遊会出席者一人2ポイント制で無記名投票し、一番多く票を集めたのが『好々亭(こうこうてい)』でした。
 飯島農園のシンボルハウス「好人舎」の響きが語頭を同じくする素敵な名前が選ばれましたことをここにご報告いたします。
 集計結果は以下のとおりです。

好々亭 7票
方丈庵 6票
竹庵  6票
飛雲亭 5票
飯門天 3票
古士庵 2票
去来亭 1票
集楽庵 1票
竹庵  1票
竹亭  0票
二十歳亭0票

 さて、好々亭と名称が決定しましたので、扁額をどなたか作っていただけると嬉しいです。
by 2006awasaya | 2012-07-17 19:14 | 真剣!野良仕事

【真剣!野良仕事】[187=東屋の命名]

2012.7.6(金)
東屋の名称、ワレに三案あり
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↑飯島農園の一角に竣工した東屋。昼食時にはフル稼働。みなさん、休戦中とは到底思えないやわらかな表情。たたかい済んで、なんて雰囲気は微塵もないんです。
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↑われらが阿部さんご夫妻。
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↑われらが大村さんご夫妻。


 先日、農事の慰労と豊作祈願を兼ねた伝統的な祝祭「さなぶり」に出席した折り、阿部さんからこんな耳打ちがありましてね。

阿 部 ものにはすべからく名前があります、よね。
長谷川 ええ、そのとおり、だと。
阿 部 で、ですね。先日来、大村さんと会うごとに「東屋の名前をどうしましょうか」と、名無しでいる限りは愛情も愛着も湧いてこようはずもなく、名前を今すぐにでも決めなくてはならぬってな表情で迫られて、ですね。少し考えさせてくださいってその場はなんとか躱したんです。
長谷川 さすが阿部さん、お見事ですね、躱しかたが。大村さんの迫りかたって、独特のものがありますからね。ついつい引き込まれて、思わず知れず同意していることがあるでしょ。翻意できずに、同意してしまうこと、過去にも多々、ありましたよね。
阿 部 ですよね。で、です。「ものには名前が必要である」に戻るのですが、先日来、竣工した東屋の名前をどうしたものか、というのが差し迫った難儀なんです。
長谷川 ボクとしてはそのうちに然るひとがたが決めてくれればいいなと、まったくの傍観者でいたかったのですが、そうですか、必要でしょうね、やはり。例えば、「今日のお昼は竹林にしましょうか、好人舎、それとも、畑に先日作ったあの休憩所?」では、すべりが悪いというか、固有名詞化されていないというか、扱いが一段低いというか、同列ではなく、軽ろんじているようでもあり、なんとも嫌ですね。
阿 部 まさしく。それで大村さんと正面切って顔を合わせる前に、自分なりに候補を考えておこうと思いまして、いくつか考えてみたんですが、なかなかいいのが出てこなくて。
長谷川 そうだったんですか。
阿 部 そうこうしているうちに、大村さんと再び三度会う機会があって。大村さんから、こんなの、どうですって。
長谷川 満を持してというか、先制攻撃を浴びちゃった?
阿 部 ええ。
長谷川 おお、さすが大村さん。どうでしたか?
阿 部 大村さんが言うには、あの休憩所は、本質的には休戦ライン上の休憩所なんだと。
長谷川 え? 急戦? 旧線? 休戦?
阿 部 北緯38度線の休戦ライン。畑は一種の戦場であるとしたら、休戦して休憩する場所が必要であろう。男と女の間にも、休戦ライン上の休憩所が必要であろう。しかるならば、板門店と名付けてもよいのではないか、と、だいたいそのような論旨で、あそこの東屋を「板門店」と命名したい、と。ヒトとヒトとの関係を下敷きにした論理の展開。でも女性陣から「休戦ライン云々は露骨すぎやしないか」と反駁があるだろうし、ここは「板」の字を「飯島の飯」に、「店」の字を「天」に替えて「飯門天」としたい。以上が大村阿部のたたき台なんですが、長谷川さん、どう?
長谷川 どうっていわれても、即答しなければなりませんか。
阿 部 結論は性急に求めてはいませんが、ひとつ、考えておいていただけますか?
長谷川 ええ、考える時間をください。

 そんなこんなのおしゃべりがあり、ビールを結構おいしくいただき、酩酊して帰宅。
 それから5日間。煩悶天をも突かんばかりの5日間でした。
 板門店、板門天、反問転、煩悶展、斑紋点。

 38度線上の板門店に縛られて、なかなか新規案が出てこないのです。

 そして6日目の今日、呪縛から開放されて、ふっと軽やかな名前がいくつか浮かんできましたので、ここにご披露したいと思います。

【案一】
 好々亭。

 飯島農園のシンボルでもある母屋、好人舎ですが、これに少しは関連を持たせての「好々亭」なのです。気分としては、集うひとの顔を思い浮かべると、どうしても「好々爺」という字面が浮かんできますが、女性陣から男性中心主義だとか、この年になっても性差別はいかがなものかと、きつい寸鉄をいただきそうで、このことはいっさい表に出さず、ひたすら好人舎関連で押し通さん。

【案二】
 去来亭。

 隠遁生活への憧れを綴った陶淵明の「帰去来辞」、有名なあまりにも有名な「田園将に蕪れなんとす なんぞ帰らざる」を下敷きにした去来亭もまた、おおいにユートピア的で、候補として落としがたい。

【案三】
 二十歳亭。

 私事ですが、実は成人する1年前から、李賀のこの一節に悩まされていまして。夜ごと悪夢に脅える日々を過ごしていたんです。成人式にも出席せず、自室に閉じこもって、二十歳という年齢を早く踏み越したいと念じつつ、この「長安に男児あり、二十歳にしてこころ、すでに朽ちたり」という呪文に縛りつけられていました。二十歳の誕生日、両親から「おまえもやっと二十歳になったんだな。ま、ゆるゆるとやることだ」と、励ましでも期待してるでもない、まことにぼんやりした祝福の言葉をかけてもらい、ひょっとして朽ち果てずにこれからも生きていけるかもと思っていまに至ります。
 ま、そのような経緯があったとして、なかったとして、真意は二度目の二十歳亭か、三度目の二十歳亭か、何度でも二十歳でいるメンバーにはこの名前もまた捨てがたく、候補としました。


贈陳商

長安有男児
二十心已朽
楞伽堆案前
楚辭繋肘後
人生有窮拙
日暮聊飲酒
祗今道已塞
何必須白首
淒淒陳述聖
披褐鉏俎豆
學為堯舜文
時人責衰寓
柴門車轍凍
日下楡影痩
黄昏訪我來
苦節青陽皺

李長吉歌詩集(岩波文庫)より

 杜甫は詩聖、李白は仙才、李賀(長吉)は鬼才と呼ばれていたその人ですから、いまもこの三人には脅えています。

【案四】
 飯門天。

 さてこそ、いかにせん。
by 2006awasaya | 2012-07-06 18:36 | 真剣!野良仕事