2013.11.10(日)
ひょうたん島表敬訪問
↑女性陣は音感がいいのか、iPhoneでダウンロードした校歌を聞きながら、斉唱の予行練習。
↑大槌湾に浮かぶ蓬莱島、通称「ひょうたん島」を正面に見る岸壁で、兼ねてからの飯島さんの念願だった「釜石小学校校歌」を歌う参加メンバー。
↑デジタルズームで精一杯望遠にして撮った蓬莱島。ロウソク型の灯台も立ち直り、島へとつづく堰堤もほぼ完成していた。
↑今年の三陸行には思わぬ参加者が。ボクがむかし勤めていた会社の若き女性とその友人です。ありがたいことにfacebookつながりで参加してくれました。掌にひょうたん島を乗せるなんて構図は思っても見ませんでした。やわらか頭って、かなかないいもんです。
顔を合わせるたびに、飯島さんから「釜石小学校の校歌、知ってる?」「釜石小学校の校歌、井上ひさしさんの作詞だってこと、知ってましたか?」「あの校歌で勇気づけられたんだそうです、救援の手が入るまで、そして救援の手が入ってからも」「去年は行けなかった大槌ですが、今年はなんとしてでも行きたい。ひょうたん島をこの目で見たいんです」などなど、さまざまに問われ続けました。きっとボクだけではなく、視界にはいるほとんどすべての方々に、うわごとのようにおしゃべりしたに違いありません。
長谷川 それじゃあ、今年の三陸行きのテーマは「ひょうたん島を見ながら、釜石小学校の校歌を歌う」ということにしましょうか。
飯 島 それを前面に出して、はたして良いものか。これは飯島個人の思いなので、それを理由に皆さんを誘うわけにはいかないのではないでしょうか。もう少し考えたいと思いますが。
長谷川 物事には個人と組織があり、個人が抱いた思いを実現するためには、ときに論理的な整合性がとれなくても、平気な顔をして、突っ走る。言い出しっぺの個人が繰り返し繰り返し、初めてしゃべりような顔をして、その思いをしゃべりつづけていれば、しゃべり掛けられたほうも、それは以前に聞きましたと思う一方で、そうか、それほどまでに思い焦がれているのかと、心を傾けてくれるに違いありませんよ。そうした思いに賛同してくれた方々で大槌に行くわけで、強制もお願いもしていないのですから、とりいそぎ募集をしてみませんか。参加者が少なかったら、それはその時に新たに考えればよろしいわけで、とりあえず募集してみましょうよ。
そんな会話があった数日後、飯島さんの思いをわずかに滲ませた募集のチラシを作りました。
チラシのタイトルは「自慢の野菜をもって、話を聞きに行きますよ!三陸の漁師さん!」としました。もともとは「おいしい野菜公園2007」のT女史が音頭を取り、始めた飯島農園の被災地支援です。その後、さまざまなご縁で岩手県陸前高田と大船渡の漁師さん達と知りあい、三陸の漁業復興の一助になればとの共通の思いを抱いて続けられた企画です。夏には夏野菜とスイカ、冬には大量のネギを中心に、その他野菜とは直接関係ないながらも、こんなものでよろしかったらという品々を送ってきましたが、年に一度は現物を持参して届けるツアーを実施、今回は2年目の持参ツアーです。
この三陸支援という本線に、参加する各人のこれまたさまざまな思いをぶらさげ、本線を太く継続することが大切なことで、そのためには個々の思いを前面に出しても、背面に裏張りしようと、脇を固めようと、それは各人の自由なはずです。
飯島さんの思いは大槌湾にて、釜石小学校校歌を斉唱したいということですが、ボク個人の思いは、大きな大きな、夢のように大きな写真と再会したいというものでした。
大震災の年の10月に、高校生の息子を連れ、当時ボランティアの拠点だった遠野から沿岸各所にお手伝いに入りましたが、その年の夏に妻が入った大槌町の惨状が記憶に残っていましたので、大槌行きのチームに加わり、大槌町赤浜地区で清掃作業をしてきました。その帰りがけにトイレ休憩で立ち寄った「川の駅横田」で見た陸前高田の、夢のように美しい写真にもう一度再会したいというのが、ボクの思いだったのです。畳一畳はあろうかという大きく引き伸ばされた写真には、震災前の、満開の桜堤とその背後に広がる松原が写っていて、もう40年以上も前のことですが、学生だった頃にあの松原で海水浴に興じたことがあっただけに、異常に懐かしい風景だったこともあり、この写真をもっとゆっくりと眺めることで、40年前のあの日のことを思い返したい、そんな思いでいたのです。
↑東日本大震災の年の10月に訪れた大槌湾赤浜地区。目印だった赤いローソク型の灯台が根元から折れていた。
震災の年の10月に見た大槌湾に浮かぶ「ひょうたん島」の写真を大きく掲げ、行程などの必要事項をしるし、その脇のスペースに「釜石小学校校歌」を添えて募集チラシを構成しました。
長谷川 これが三陸行きの今年のチラシですが、いかがでしょうか。
飯 島 倒れたタンクの脇に見えているのがひょうたん島ですか。赤いローソクの形をした灯台が、たしか、もう元通りの姿で再建されていたと思いますが、これでいきましょうか。大槌に入ってからその日に夕方までに大船渡まで戻るコースが、時間的には結構シンドイですが、トイレ休憩の回数を減らすとか、昼食時間をゆっくりとれないことなど、注意書きが必要になるでしょうな。その点、フォローをお願いします。
そうして迎えた出発日前日までに、以下の野菜類を準備して三陸に向けて出発したのです。
【三陸の漁師さんへの持参目録】
1=無農薬サツマイモ(飯島幸三郎) 8袋
1=無農薬コシヒカリ新米(飯島幸三郎) 30kg
1=フローズン茹で落花生オオマサリ(松本伸一) 10kg
1=かがまずに使える竹製ロング靴べら(坂本剛規) 30本
1=和装巾着袋物(川口章子・大村悦子) 20袋
1=和装メモ帖(長谷川智昭) 10冊
写真に掲載したように、大槌湾の岸壁で、移動中のバスの車内でiPhoneからダウンロードした釜石小学校校歌のメロディを参考に、景山さんの斉唱指導でなんとか声を合わせて車内で数回リハーサルを繰り返し、ひょうたん島を眼前にしつつ、歌うことができました。
長谷川 たまには恥ずかしげもなく、大きな声を張り上げて歌うってのも、これはこれでなかなか楽しいことですね。
川 口 この歌詞には釜石とか岩手とかの地名が入っていないのが素晴らしいて、誰だかが指摘していたけど、まさしくそのとおりで、歌うことで勇気づけられた人が多かったんだろうと思いましたね。
大 村 華麗な形容詞も使っていなくて、基本的には動詞で構成されているでしょ。だから誰もが歌っていて気持ちがいいんだと思うんです。私たちが気持ちよく岸壁で歌っているのを、地元の方かしら、なんだか嬉しそうに見守ってくれていましたね。なかには写真を撮ってる人もいて、そういうサービスもできたし、それなりにいい記念になったと思いますね。
長谷川 「君が代」に替えるのは難しいので、なにかの節目に日本国第2国歌として支持してくれる人がたが増えるといいなあと思いました。ラジオ体操第一に続いて、ラジオ体操第二のメロディーみたいに。
飯 島 その主旨に賛成!飯島農園の農園歌として、今後も歌っていきたいと思いましたよ。
大槌湾をあとに、今夜の宿のある大船渡市越喜来(おきらい)へ。そして、宿舎にて三陸漁業生産組合の瀧澤さん、遠藤さん、伊藤さん、平田さんの出迎えを受け、一献二献三献と重ね、陶然とした懇親会となりました。
その翌朝、ホタテ養殖の現場へと案内してくれた瀧澤さんと遠藤さん。この日は日曜日。お休みなのですが、われわれをホタテ養殖現場に案内してくれたのでした。
ホタテ漁を体験
↑越喜来湾の崎浜港を出航し、外洋に出るあたりは湾口の両サイドからの波がぶつかり合うために波もひときわ盛り上がり、大揺れの漁船。瀧澤さんの後ろ姿が逞しくも頼もしい。
↑こちらは遠藤さんの第五崎浜栄丸。大きなうねりを切り裂きながら雄走。この日は空も海も鉛色。
↑ホタテ養殖の現場に到着。震災の年から3年を経過して、今年からいよいよホタテの出荷ができる。その成育具合が気になるところ。
↑ホタテ貝に穴を開け、ロープに括りつけて垂下する「耳吊り」と呼ばれる養殖法を、このあたりでは採用している。垂下する1本のロープには約150前後のホタテが縛りつけられていて、そのロープを引き揚げながらホタテを収獲しているところ。
↑収獲したホタテにはイソギンチャクやフジツボ、ムール貝などがびっしり。どこにホタテ貝があるのか判らないほど、びっしりとムール貝で鎧われている。米づくりや野菜づくりで言うならば、草取りに相当するのかな。厄介な作業だけど、きちんと除草しないと肝心の野菜やお米が負けちゃう。同様に、ホタテも貝の外周にフジツボが付着すると、きちんと二枚の貝が閉まらなくなり、ヒトデなどの攻撃を甘受することになる。この清掃作業は年に何回か、やるという。この清掃作業を体験してみませんかと瀧澤さんのお誘いに甘んじて体験させてもらう。
↑鉈のような包丁で、ガリガリ、カンカンと汚れを取り除くと、はい、ご覧の通り、きれいになったホタテ貝。でも、まだまだ。もっと丁寧に掃除しないと、売り物としては出荷できない。
↑清掃作業もう一息のホタテ。まだ汚れがついている。
↑これで清掃作業完了。これくらいきれいにしないと売り物にならない。
↑作業を教えていただいたおかみさん二人を囲んでの別嬪写真。
↑体験作業を終えて参加者、漁業者の共同メモリアルショット。
↑これほど新鮮なホタテは刺し身でしょ。
↑新鮮だからって、刺し身ばかりでは飽きてしまう。貝焼きのうま味はまた格別。甘味がぐーんと主張していた。旨かった。
↑第2回三陸懇親会報告書。
大槌湾視察、ひょうたん島を前に見ながらの『釜石小学校校歌』斉唱、ホタテ養殖の現場体験と、当初の思いを実現し、帰途に「川の駅横田」にトイレ休憩を兼ねて立ち寄ってもらいました。3年ぶりの「川の駅横田」です。あの夢のような写真に再会できるとワクワクしながらトイレ横にある通路に入ったのです。畳1帖を横にしたくらいの大きな写真ですから、すぐに判るはずです。でも、見当たらないのです。掲示場所が変わったに違いありません。同じ棟にある畳敷きの大広間は閑散としていましたが、その壁面には掲示物はありません。広々した売り場にも、玄関周辺にも見当たりません。あれれ。胸苦しくなってきました。レジの女性に「これこれこういう写真が震災の年に飾られていて、その写真を再び見てみたいと仲間を連れてきたのですが、その写真が見当たらないのです。ご存知ないでしょうか、あの写真」。
レジの女性は事情を察してくれて、電話でどなたかに連絡をとってくれました。待つこと数分。責任者という方がお見えになりましたので、もう一度繰り返して説明しましたら、そういう写真があったような、なかったような、「なんとも申し訳ありませんが、記憶にないのです。震災の年には、さまざまなアングルの、さまざまな季節の陸前高田を写した写真を飾ったので、おっしゃっている写真がどうなったか、いまひとつ明瞭に説明できず、申し訳ありません。その写真を見るために、わざわざ立ち寄ってくれたのですか。そうですか」と、気の毒がられるやら、謝まられるやら。
バスに戻って、車内で待っていてくれたメンバーに事情を説明。
「写真がなかったのなら仕方ないですね。長谷川さんの思いはまだこれからも続くのですから、それはそれでいいじゃありませんか。思いはずっと続いていたほうが。では東京に向けて出発しましょうか」と運転席の飯島さん。小雨降るなか、帰途に就きましたが、はて、あの夢見るような風景の陸前高田の写真はどこにいってしまったのでしょうか。陸前高田の昔を知る方々も同様の喪失感に、なすすべもなく、立ちつくしているのでしょう。ボクの思いは一枚の写真が見当たらないだけですが、写真に写っていた風景そのものが奪われた方々にとっては、天を仰いで呪うほかに、いったいどうすればいいというのでしょう。
幸いなことに、座席にうずくまってシュンとなっているボクに言葉をかける方もなく、それを良いことに、帰ってから息子になんと説明したものか、あれこれ思いを巡らせていました。さて、どれほど寝ていたのでしょうか、目を覚ましたら郡山の手前でした。